中国共産党員・鄭律成の評価

「国家有功者」か共産主義者か

「記念公園」建設を巡り論争

鄭律成(新東亜10月号から)

韓国である人物の評価をめぐって論争が起こっている。鄭(チョン)律成(ユルソン)だ。あまり聞かない名であり、今の韓国人にとっても馴染(なじ)みのない人物だという。その彼がどうして議論となっているのか。

現在、光州市が鄭律成の「記念公園」建設を進めているのだが、鄭の経歴が問題となって、月刊誌新東亜(10月号)によれば「左右の理念対立、大韓民国の国家アイデンティティー議論」にまで広がっているというのだ。鄭律成の何が問題なのだろうか。

新東亜に「エポックタイムズコリア国内エディターの崔昌根」氏が記事を書いている。記事の狙いは鄭の一生の歩みから見て、彼が光州市に記念館を建てられるほどの人物かどうかを見極めるところにある。

記事から鄭の経歴を見てみよう。1914年、光州で生まれ、日韓併合時期に一家が中国に渡り、それに伴って鄭も南京へ移住した。現地では「朝鮮革命軍事政治幹部学校」に学び、卒業後は「南京鼓楼電話局に潜入(就職)して、南京・上海間の日本人電話盗聴任務を遂行した」という。

鄭は作曲活動を積極的に行っており、この間、中国左派青年組織「五月文芸社」に「五月之歌」を発表して入会もしている。

ここまでの経歴を見ると、国外で朝鮮の左派民族運動に入り、業務の傍ら盗聴を行ったり、中国の左派運動にも加わっているが、「臨時政府」や「パルチザン」といった「抗日独立運動」に挺身(ていしん)したというわけではない。

その後、毛沢東の「長征」に同行し、延安では「革命拠点を賛美する『延安頌』」を作曲。中国人の妻・丁雪松を得て、中国共産党にも入党し、活動に身を投じた。だがここでも朝鮮独立運動への関与はあまり見当たらない。

1945年、日本の敗戦で朝鮮が独立すると、鄭は家族を伴って半島に戻るのだが、故郷の光州ではなく共産党支配下の平壌だった。鄭はそこで朝鮮労働党の地方幹部として活動しながら作曲活動を続け、「朝鮮人民軍行進曲」「中朝友誼(ゆうぎ)」などを作曲して、その功績が認められて金日成から「模範労働者」として表彰されてもいる。

一方、妻の丁雪松は平壌で「実質的な中国共産党の駐朝情報機関代表役」を務めていたが、北朝鮮内での風当たりが強くなり、周囲の目も厳しくなって、「帰国したい」と周恩来(当時首相兼外相)に要請した。丁雪松は“周恩来の娘”と言われるほど親密な関係にあったという。

中国の要請によって金日成も鄭律成の“帰国”を認めたその矢先、韓国動乱が勃発する。いったんは中国に戻った鄭は「中国人民志願軍(人民解放軍)を支援する任務を帯びて戦線に投入された」。中国軍を鼓舞するために「朝鮮人民遊撃隊戦歌」「中国人民志願軍行進曲」などを作曲しつつ、共産軍がソウルまで支配下に置いた時には「朝鮮宮廷楽譜」などを渉猟して回ったという。

休戦後、中国に戻った鄭律成は中国籍を取得、共産党籍も回復した。名実ともに「中国人」になったのである。その後、大躍進(1958年)、文化大革命(66~76年)などに巻き込まれながらも、「毛沢東賛歌」を手掛けたことから、知識人や芸術家がターゲットになった総括・粛清は免れた。

76年、生涯を閉じた鄭律成は「北京八宝山革命烈士墓」に安置され、「後に党総書記になる胡耀邦が追悼の辞を朗読した」という。

さて、この人物を文在寅政権では「国家有功者」として叙勲しようとした。中国共産党員であり、韓国動乱では北朝鮮を支援する人民解放軍の一員として参戦、北朝鮮でも朝鮮労働党の幹部として活動した。中国に戻り中国籍を取得、中国人として革命烈士の墓に埋葬された人物である。どうして韓国が「国家有功者」と認定できようか、という話だ。国家報勲処が反対したのは当然のことである。

崔昌根氏は書いている。「薄い抗日行跡、鮮明な親共産主義行跡」と。抗日運動や民族独立運動に携わった者なら国家有功者の“資格”はあろうが、鄭律成のそれは違う。であるのに韓国左派政権や“地元”光州市はこの人物のために生家を整備し、記念碑を建て、道路に命名し、記念事業を行って、既に117億ウォン(約13億円)を投入しているという。

さらにまた記念館を建てようとしている。激動の朝鮮近代史が生んだ国と理念をまたいだ人生と、その評価で対立する韓国の現住所でもある。

「民主化精神」とは相いれず

鄭律成の評価を巡って韓国の保守派と左派が光州を舞台に「理念対立」を激化させている。月刊朝鮮(9月号)で同誌のパク・ヒソク記者が「5・18と鄭律成は両立できない」の記事を書いた。鄭律成について一言で理解できるので、前稿でも述べたが引用する。

「鄭律成は日帝強制占領期、光州で出生した後、中国に渡って一生を中国と北朝鮮の共産党のために活動した作曲家だ。韓国動乱開戦後には北朝鮮人民軍所属でソウルまで来て、北朝鮮軍歌を作る“反大韓民国”活動を行い、以後、中国に渡って民族分断の“元凶”の一人毛沢東を称賛する歌を作った“中国人”だ」

光州市はこうした鄭律成のために「記念公園」を造ろうとしている。これに対して、「社会正義を望む全国教授の会」が反対の声を上げた。「公園は光州だけの歴史解釈で造られてはならない」と。

光州といえば1980年、軍事独裁政権に対する武装蜂起事件が起こった地だ。「北の工作員に唆された学生が軍の武器庫を破り、大量の銃器を持ち出し、それを鎮圧する軍部と激しい銃撃戦を繰り広げ、多数の犠牲者を出した」と言われている。

この暴動の解釈を巡って、盧泰愚政権の時「軍事独裁に反対する民主化運動」と再定義され、事件の起こった日付を冠して「5・18民主化運動」と呼ばれるようになった。つまり光州とは民主化の“聖地”なのだ。

その民主化の精神と中国共産党員・鄭律成は折り合わないというのが抗議する教授たちの主張である。

朝鮮近代史の中で韓国、中国、日本が覆いかぶさる人物として想起されるのが詩人の尹東柱(ユンドンジュ)だ。中国東北部間島省の龍井で出生し、ソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校(現延世大)を卒業して日本の同志社に留学、福岡で獄死している。創氏改名していたので「日本人」として死んだ。父方の曽祖父が現在の北朝鮮咸鏡北道から間島に移民した子孫だった。

尹東柱は朝鮮語で詩を詠んだ紛れもない朝鮮人の詩人だ。ところが中国が「朝鮮系中国人」として生家を保存(現在は閉鎖)するかと思えば、同志社には尹を偲(しの)ぶ碑が建立され、韓国にも延世大に記念室が残る。日本のように業績を讃(たた)え詩人を偲ぶだけならばいいが、中国が「自国の詩人だ」というのは厚かまし過ぎる。

一方、鄭律成の場合は、中国では「三大作曲家」と評価されるも、韓国ではその経歴ゆえに評価と否定が交錯する。ここの歴史は今も熱い体温を発している。

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