エネルギー他国依存は孤立招く
世界日報の読者でつくる世日クラブ(近藤譲良(ゆずる)会長)の定期講演会が10日、動画サイト「ユーチューブ」の配信を通じて行われ、「空の神兵」顕彰会会長の奥本康大氏が「パレンバンの史実と出光佐三の軌跡~国家の命運を決するエネルギー問題」と題して講演した。奥本氏は、インドネシア・スマトラ島南部のパレンバンで昭和17年2月14日に行われた日本軍の落下傘奇襲作戦を「日本の石油が枯渇しそうな時、オランダ軍が占領していた石油基地を制圧し、以降も日本が戦争を続けることができた大戦果だった」と強調した。以下は講演要旨。(敬称略)
明治38年、日露戦争で日本はロシアに勝利した。両国の仲介を行った米国は、黄色人種が白人を打ち負かしたことで日本を今後の脅威とし、日本を仮想敵国としたオレンジ計画を策定した。
米国はさらなる日本叩(たた)きとして、大正13年に「排日移民法」、昭和14年には「日米通商航海条約」の一方的破棄、そしてついに昭和16年には石油の完全禁輸を行った。当時、日本は約92%の石油を米国とオランダに頼っていた。石油がなくなれば、お手上げとなり日本は米国の植民地とならざるを得ない。
こういった背景から見ても、大東亜戦争(太平洋戦争)は侵略戦争ではなく、日本にとって自存・自衛のための戦いというのが現実だった。昭和天皇も戦後、「大東亜戦争は石油で始まり石油で終わった」とご述懐されている。
オランダの植民地だったパレンバンは、石油生産量が年間300万トンと、世界屈指の石油基地だった。その上、パレンバンの飛行場を制圧して南方制空権を確保するという目的もあり、日本軍はまずはここを押さえようと、落下傘部隊による奇襲攻撃を決断。私の父もパレンバンの落下傘部隊の隊員の一人だった。
落下傘部隊はドイツの空挺部隊に刺激を受けた東條英機大将が設立を熱望し、昭和15年12月に挺進練習部が創設された。実際の戦闘だと、落下傘部隊は最小限の時間で地上に着陸できるよう、かなりのスピードで降りなければいけない。下から敵の機関銃や高射砲で狙い撃ちされてしまうからだ。しかも当時の日本の技術では、降下兵は拳銃と手りゅう弾数発しか装備できなかった。
300人ほどが参加したパレンバンでは、その1割強が倒れた。だが、もともと落下傘攻撃は損耗率の高い戦法であり、パレンバンの戦死者はかなり少ない。これ以外にもパレンバンの落下傘部隊は本当に奇跡だった。九州から出撃途中、なんと挺進第一連隊を乗せた船が火災事故を起こして沈没。事故後に訓練生を含めた第二連隊を急遽(きゅうきょ)編成して、パレンバンに投入することになった。だが、私の父も実質訓練できたのは一カ月半だけで、本当ににわか仕立ての部隊であった。
当初の着陸地点も高射砲に邪魔され、輸送機操縦士が危険を回避したことで降下予定地上空から逸(そ)れたジャングル地帯に降りることに。そのため、別途投下された大型武器の入った物量箱は入手できなかったが、ジャングルで身を隠しながら戦闘することができ、それが生存率の高さにつながった。
父たち5人の兵士は、日本軍の迎撃に来た敵兵を急襲し、30倍の約150人を撃破。その後、再び150人ほどの敵兵と戦闘になったが、この戦いでも勝利。作戦は成功し、たった一日で飛行場と製油所を制圧した。この功績で父は作戦後、昭和天皇に単独拝謁(はいえつ)を賜る名誉を得た。
まさに奇跡的な勝利であり、日本の植民地化を防いだ戦いだった。それだけ若い日本兵たちは国を守るために、自分たちが石油を確保しなければいけないという使命感に燃え、団結力にあふれていたに違いない。大勝利した落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、絵話にもなった。
陸軍は南方で大量の石油を確保していったが、この石油は出光商会(当時)が一手に配給作業を引き受けており、約200人の嘱託社員が従事していた。
ここで出光創業者の出光佐三の話をしたい。私は現役時代、出光興産に勤めていたが、出光佐三をモデルにした『海賊と呼ばれた男』という小説は、OBから見ると少し違うと感じる。映画でもどこか荒っぽい商人という描かれ方だったが、実際は紳士であり、国を憂いて繁栄させるため、一途(いちず)に商売をしていた愛国者だ。よく言っていた言葉が「日本人に帰れ」で、日本人の本当の姿と歴史を知れと私たちによく話していた。