旧統一教会(世界平和統一家庭連合)をめぐって繰り広げられている現在の批判は、現行憲法が定める政教分離の原則の下、正しい批判の仕方で行われているであろうか。現行憲法がアメリカ占領軍に押し付けられてできた憲法であることをもって、この憲法が定めた政教分離の原則は、現在、日本の社会の中で十分に習熟されて適用されていない。
現在の旧統一教会批判には、旧統一教会の信者の信仰の自由への配慮があるだろうか。旧統一教会にいかに批判すべきところがあっても、現に信仰している信者には、信仰の自由があり、それ自体は傷つけられてはならないという配慮があるかということである。
旧統一教会の持つ問題を見てみるに、創価学会との対比で見てみると分かりやすい。かく言う論者の私は双方に親しい関係がある。旧統一教会の関連団体である世界日報社の発行する日刊紙『世界日報』の「ビューポイント」欄には私の主張を何度も載せている。
片や創価学会には大学卒業以来親しくしている友人がいる。かつて公明党の衆議院議員鍛冶清(故人)にも親しくしてもらった経歴があり、この人の仲介を経て、平成の天皇即位に関する大嘗祭に関して、内閣法制局に意見具申をしたことがある。
両者に友好関係があるので、両者を対比して今回の旧統一教会批判に問題のあることを指摘するのは適任であろう。
言うまでもなく、旧統一教会はキリスト教系だが、創価学会は仏教の最高経典といわれる法華経を深めて信仰する信仰団体である。
宗教というのはもともと信仰する信者がいて成り立つもので、その信者の信仰の自由を最大限に保障しようというのが、政教分離の原則である。その信仰の自由を保障するため、信者が集団化して団体をつくることを保障して宗教法人法の制度がある。そして伝統宗教を除いて、新興宗教の場合、強烈な教祖とか指導者がいるのが通常である。
この、信者、宗教法人、教祖または指導者の3者のうち、政教分離の下、最も大切にしなければならないのはどれであろうか。言うまでもなく信者である。信者の信仰の自由は、集団化して宗教法人をつくり、集団的宗教活動をしてもよいが、集団化せず、一人でも信仰の自由を享受することができ、政教分離の原則はそれも保障しなければならない。が、通常はどこかの宗教集団たる教団に属し、その教団は法人化して宗教法人になって存在する。
このような前提で特に新興宗教を見てみた場合、もう一つ重要な要素がある。その宗教集団には、強烈な教祖かまたは指導者がおり、その信仰の自由はその強烈な指導力を持った教祖か指導者の指導に支えられて存在しているところがある。
そこで旧統一教会の教祖の文鮮明は、ソ連が崩壊し冷戦が終わるころまでは、「勝共連合」という組織をつくり、共産主義の撲滅を図ったので、左翼から恨みを買っていた。しかし冷戦終結以降は、北朝鮮を解放し、韓国と共に統一国家をつくろうとしたのであろうか、北朝鮮に接近し、資金を投資したので、いわゆる保守の側からも怒りを買ってしまっている。そのため、現在の旧統一教会への批判で弁護してくれる勢力がない。そのため旧統一教会への批判は無制限にエスカレートしている。