国内

裁判で適切な判断を期待 美馬秀夫徳島市議に聞く

文部科学省は13日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会、家庭連合)の解散命令を東京地裁に請求した。家庭連合の信者を公言している徳島市議の美馬秀夫氏(73)に、解散命令請求の受け止めについて聞いた。

岸田首相演説、現場はピリピリ

「選挙戦でこれだけの厳しい警備は経験したことない」。岸田文雄首相は14日、参院補選の応援のため高知市入りしたが、あまりにも厳しい警備に演説会場に来ていた有権者の男性は驚きを隠せない様子だった。

旧統一教会の解散請求 東京地裁に 文科省 不法行為で初

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題で、文部科学省は13日、教団の解散命令を東京地裁に請求し、受理された。多額の献金を要求する民法上の不法行為が1980年ごろから継続し、被害は計約204億円に上るなど甚大だと指摘。宗教法人法に基づき、法令に違反して著しく公共の福祉を害し、目的を逸脱したと判断した。

解散請求は「全体主義」と非難 12の国際人権団体が共同声明

信教の自由擁護に取り組む12の国際人権団体の代表者は13日、日本政府が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散命令を請求したことを「全体主義」と痛烈に非難する共同声明を発表した。

生誕100年の司馬遼太郎と陳舜臣

今年は司馬遼太郎の生誕100年で、大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)で1年下だった陳舜臣は来年が生誕100年になる。司馬は蒙古語学科、陳は印度語学科を卒業。2人は学生時代からの親友で、司馬の『街道をゆく』の「台湾紀行」は台湾が第2の故郷の陳の勧めで実現し、陳は司馬を案内、当時の李登輝総統にも会うことができた。

解散命令請求に「痛恨の極み」 家庭連合が公式見解

文部科学省が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散命令を東京地裁に請求する方針を発表したことを受けて、家庭連合は12日、公式見解を教団のホームページ上で発表した。

旧統一教会の解散請求決定 質問、元信者ら調査し判断 文科省

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の高額献金などの問題を巡り、文部科学省は12日、教団の解散命令を請求する方針を正式決定した。盛山正仁文科相が記者会見で表明した。文化庁による調査の結果、教団は遅くとも1980年以降、困惑や不安に陥れる勧誘活動を続け、被害が約1550人、計約204億円に上ることなどから民法の不法行為に当たり、解散命令事由に該当すると判断。13日にも東京地裁に請求する。

解散命令に危機感示す 富山市で公開シンポジウム 家庭連合は「叩きやすいオブジェ」

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対する政府の解散命令請求が注目される中、教団の現状や政教分離のあり方などについて議論する公開シンポジウム「国家と宗教-その関係を問う」(主催・富山県平和大使協議会)が11日、富山県富山市内で開かれた。シンポでは、徳永信一弁護士と金沢大学の仲正昌樹教授を中心に、パネルディスカッションが行われた。

山形・栗子山風力発電計画 環境影響評価を改竄か

山形県と福島県の県境に位置する栗子山で進む風力発電計画で、事業を進めるJR東日本エネルギー開発(本社・東京)がまとめた環境影響評価のデータに改竄(かいざん)の疑いがあることが分かった。山形の「さくらんぼテレビ」が報じた。

解散請求撤回へ文化庁に嘆願書 信徒ら直筆5万余

世界平和統一家庭連合は11日、同教団に対する政府の解散命令請求に反対する5万3499通の嘆願書を文部科学省文化庁に送付したことを発表した。すべて信徒の直筆で、10日付で文化庁に送付したという。

#15 「二度と犠牲者を出さない」検察は不起訴処分、後藤さんの闘いが始まった【後藤さんの闘い・解放から入院へ⑤】

両膝の痛み、栄養失調、脱水症状などで都内の病院に緊急入院となった後藤徹さんが車椅子で、診察室から病棟405号室に移ったのは2月11日午前1時40分(看護記録による)。歩けなかったので、ベッドの傍らにはポータブルトイレが用意された。

#14 「2年ぶりのカレーとあんぱん」あまりの嬉しさに涙がこぼれた【後藤さんの闘い・解放から入院へ④】

守衛からの電話で「13年」という監禁期間と「後藤」という名前を聞いた当時の統一教会広報部長・太田朝久氏が、「本物だ!」と興奮して叫んだのはどうしてなのか。

#13 「私も食口ですよ」A子さんとの出会い「全細胞が感動して」涙【後藤さんの闘い・解放から入院へ③】

東京・荻窪の監禁場所から歩き続けた後藤徹さんは、東京・渋谷の山手通りにある「松涛2丁目」交差点で、一歩も動けなくなった。それから、10分ほどたっただろうか。

#12 「本部まであと15分なのに」激痛が走る膝、痛む筋肉【後藤さんの闘い・解放から入院へ②】

後藤さんにとって、12年ぶりに外の空気を吸って自分の足で道を歩くことは、とても新鮮な感覚だった。長年にわたって閉ざされた空間で、同じ人の顔だけを見て過ごしてきたので、全く見知らぬ人が行き交っていることまでが目新しいものに映った。

#11 「2008年2月」生活が苦しくなり無一文で放り出された【後藤さんの闘い・解放から入院へ①】

「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」監禁部屋の荻窪フラワーホーム804号室に兄らの怒声が響き渡った。2008年2月10日午後4時ごろのことだった。

#10 ニンジンの皮、キャベツの芯「もう危ない」体力は限界に【後藤さんの闘い・東京荻窪⑦】

後藤徹さんのハンスト30日間も壮絶な日々であったが、その後の約70日間も、言葉ではとても表現し尽くせない過酷な日々であった。少々の重湯と1日1㍑のスポーツドリンク(ポカリスエット)だけという日がずっと続いた。重湯は、生米を鍋で煮た白い上汁で、1回の食事時に直径7㌢深さ5㌢ほどの丸い小鉢に7分ぐらいの分量だけ。まさに、食事制裁だった。

#9 「このままでは本当に殺される」ハンスト抗議の末に【後藤さんの闘い・東京荻窪⑥】

とうとう後藤さんは不惑の40歳になった。すでに監禁は8年に及んでいた。これまで何度も脱出を試みたが、その都度取り押さえられた。長期にわたる監禁による体力の衰えと力の行使に無力感を感じていた。そんな中で、ついに2004年4月に、21日間のハンガーストライキを決行したのである。

#8 上着はボロボロに破かれ、血は畳にしたたり落ちた【後藤さんの闘い・東京荻窪⑤】

手元に置かせてほしいと求め、いったんは拒否された「現代用語の基礎知識」を、家族は翌2000年1月になると持ってきた。また、このころから産経新聞が“支給”されるようになった。後の話だが、新聞は産経から東京新聞に変わり、それも06年6月ごろからは来なくなった。

#7 「畜生、ここから飛び降りてやる」続く膠着状態、先が見えず募る焦り【後藤さんの闘い・東京荻窪④】

昼間の時間は“無事に”過ぎていく。何事も起こらないからだ。後藤さんは、その間、ずっと聖書や統一教会の教理である原理講論、統一思想の本を読んで過ごした。

#6 「死んでしまいたい」家族からの拉致監禁、脱会屋の罵倒【後藤さんの闘い・東京荻窪③】

荻窪フラワーマンションに移ってすぐ、年が変わって1998年になった。1月初旬から9月まで、毎日のように脱会屋の宮村峻・会社社長が元信者らを引き連れて804号室にやってきた。そして、決まって夕方6時から夜8時ごろまで腰を据えていた。

注目記事