トップ国内沖縄読谷村「義烈空挺隊玉砕之地」の碑 鎮魂誓い、維持に貢献  元沖縄隊友会会長・石嶺邦夫氏

読谷村「義烈空挺隊玉砕之地」の碑 鎮魂誓い、維持に貢献  元沖縄隊友会会長・石嶺邦夫氏

 旧日本陸軍の特殊空挺(くうてい)部隊であった「義烈空挺隊」が熊本から沖縄に向けて出撃してから5月24日で81年となった。沖縄県読谷村(よみたんそん)には「義烈空挺隊玉砕之地」の碑が立つ。平成10(1998)年から20年近くボランティアとして同碑の維持に協力した元沖縄隊友会会長・石嶺邦夫氏に話を聞いた。

いしみね・くにお 昭和8(1933)年、読谷村出身。中学教員、陸上自衛官を経て銀行員に転職。辞職後は自衛隊沖縄地方連絡部(現地方協力本部)の事務職として自衛隊広報や隊員サポートに努めた。元沖縄県隊友会会長。元防衛協会理事。
いしみね・くにお 昭和8(1933)年、読谷村出身。中学教員、陸上自衛官を経て銀行員に転職。辞職後は自衛隊沖縄地方連絡部(現地方協力本部)の事務職として自衛隊広報や隊員サポートに努めた。元沖縄県隊友会会長。元防衛協会理事。

 義烈空挺隊玉砕之地の碑は、過去に沖縄戦で旧日本軍が北飛行場(読谷補助飛行場)として使用していた場所に立つ。終戦を12歳で迎えた石嶺さんは、戦時中に北飛行場の建設にも駆り出された経験を持つ。戦後、米軍が読谷補助飛行場として使用していた昭和48(1973)年、全日本空挺同志会有志は義烈空挺隊の着陸地点を探し出し、木製の碑を建立した。平成18(2006)年に飛行場が全面返還されてからも、同碑に遺族などが慰霊のため足を運んでいる。

 石嶺氏が碑と出会ったのは平成10年のこと。読谷村役場を訪問していた際、米軍人らしきグループや幹部候補生の研修で時折、大型バスが駐車していることに気が付いた。ある日訪ねてみると、役場門正面の雑草の中に朽ちた木碑があった。碑にはやっと読める字で「義烈空挺隊玉砕之地の碑」とあった。

 「散る桜、残る桜も散る桜」との言葉を遺(のこ)した義烈空挺隊の奥山道郎隊長とその隊員らが、国を思う心から空挺特攻として沖縄で散華(さんげ)した戦史を知った。大きな戦禍を被った読谷村にあって、村民の間でも義烈空挺隊については伝わっていなかった。

 碑の存在を知った後、『義烈空挺隊員の面影』(田中賢一著)の「続くものありと思へばもののふの 道ひたすらに駆けしをのこら」を読み、胸を打たれた。空挺出身ではないが、散り去った勇士たちへ鎮魂の努力を誓った。

 石嶺氏は、碑の所在地が郷里であることから、荒れ果てた場所や碑を看過できなかった。沖縄県隊友会会長に選任されると、隊友会に呼び掛け、有志で碑の周りの除草作業や桜の木の植栽、碑の補修などを会活動の一環として取り組んだ。

2003年、義烈空挺隊玉砕之地の碑を除草作業した様子(本人提供)

役場と交渉し元飛行場内移転を実現

 平成19(2007)年、役場から「この場所は学校のグラウンド建設用地に指定されたので碑を村外に撤去してほしい」との連絡を受けた。碑の移転について全日本空挺同志会の関係者に相談し、役場との交渉を開始した。交流のあった遺族から、殉職の地である飛行場の一角にお願いしたいという要望があり、役場の担当者に「移転は受け入れるが飛行場内に残したい」と申し入れた。

 その後、役場内で担当窓口が総務課、教育委員会、そして跡地利用推進課と次々に変わった。「永久に残る石碑は困る」などと消極的な姿勢が示された。その間、県防衛協会の山縣正明氏、同志会の木家勝氏らが来沖し、役場に直訴した。これが役場の理解を得る大きな力となった。

 この時、石嶺氏の元には、かつての上司である元自衛隊沖縄地方協力本部長の谷脇憲司氏から「頼むぞ」との言葉や、「父親が義烈空挺隊員でした」という大阪府の遺族の願いも届いていた。

 3年間にわたる厳しい交渉の結果、同飛行場北側にある旧日本軍掩体壕(えんたいごう)横に移転が決定した。「行政財産使用許可申請書」を提出し、石嶺氏個人名義の借用地として、平成22(2010)年8月20日、移転作業(役場の経費で)を実施した。友人である長浜屋土木(読谷村)社長の協力によって平成23(2011)年6月に真新しい木碑を設置。念願だった元飛行場内への移転が実現した。

 木碑には「賜りました賽銭(さいせん)は空挺同志会沖縄県支部に納入させていただいております」との文言を添付して、賽銭(浄財)は定期的に山縣氏に手渡していた。

革新色が強い地域、歴史的評価がゆがむ懸念

 読谷村は革新色が強い地域だ。修学旅行などの民泊の際、同碑は掩体壕とセットで、被害者史観に基づく反戦平和学習コースに組み込まれている。一般の通行者から見えにくい場所に配置されているとの指摘もあり、歴史的評価がゆがむ懸念がある。

 「村の都市計画の関係で碑の将来については不安もあるが、玉砕の地を鑑み、可能な限り碑を守り、鎮魂の努力、協力を続けた」と話す石嶺さんは現在、92歳。現在は碑の維持には関わっていないが、「碑を通して沖縄で散華した義烈空挺隊の勇士の思いが語り継がれることを願っている」と語った。

ニュースワード 「義烈空挺隊」
 沖縄戦で米軍が占領した北飛行場(読谷村)や中飛行場(嘉手納町〈かでなちょう〉、沖縄市、北谷町〈ちゃたんちょう〉)に夜間、強行着陸することによって、停機中の航空機や米軍関連施設を破壊する任務を受けた。昭和20(1945)年5月、同隊員168人を乗せた12機の爆撃機が熊本県の健軍飛行場から出撃。沖縄で米軍の激しい対空砲火と迎撃によりほとんどが撃墜されながらも、1機が着陸に成功。米軍の記録によると、航空機33機に損害を与え、7万ガロンのガソリンを燃やすなどの戦果を挙げた。

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