琉球国時代から370年の伝統を守る先代の仁王(におう)や父・永仁の遺志を受け継ぎ、60年にわたり「壺屋焼」を作り続けてきた伝統工芸士の小橋川昇さん(76)。伝統的な形からマスコットまでシーサーの多様な造形が人気を集めている。食器などの日常雑器も作り、「使い手の喜びが作り手の喜び」と語る昇さんの半生をたどった。

昇さんは4月3日の「シーサーの日」イベントで実演制作していたシーサーの焼き上がりを見せてくれた。昇さんは「分からないものを作ることは良い」と制作への思いを語る。
魔よけの守り神として沖縄に定着したシーサーは、現在も県民の生活に浸透し、観光客にはお土産としても人気だ。シーサーを取り扱う陶器店が立ち並ぶ那覇市の「壺屋やちむん通り」は、観光地の国際通りから徒歩5分の場所にあり、石畳と昔ながらの風情が残っている。
壺屋は琉球王府が17世紀に陶工たちを移住させた一帯で、沖縄戦で戦災を免れた。戦後復興を感じながら壺屋で育った昇さん。周りの人は戦争中の苦しみをほとんど語らなかったという。戦前から壺屋焼を生業(なりわい)としていた父は戦時下に南方戦地への出征を経験した。
「生きて帰ってきたことは最高の喜びだったと思う」と昇さんは、戦後に家業を継いだ父を振り返る。米軍統治下、父は米軍の将校クラブの中に入って実演販売していたことも覚えている。将校クラブの夫人たちも雑器を買ってくれた。悲しい過去を抱える沖縄だが、「敵対していたわけではない」と当時を振り返る。
日本の高度経済成長期に新婚旅行先として注目され始めた沖縄ではお土産品としてシーサー作りが活性化した。1966年、16歳の昇さんは本家に3年間の弟子入りを決意し、家業を継ぐことを選んだ。

空手と同じ心得で弟子入り
壺屋焼には決まった教え方がない。見て覚えるのが基本だった。沖縄の方言では「目習い(みーならい)、耳習い(ちーならい)、手習い(てぃーならい)」といい、沖縄の三味線や空手、舞踊などでも同じ表現が使われ、習得の心得として大切にされている。
焼き物の世界では「土練り3年、ろくろ10年、焼き一生」と言われている。弟子入りから約10年後に父が55歳で亡くなり、27歳の昇さんは父の跡を継いだ。約30年前に現在のうるま市に工房を構えた昇さんは夫婦で支え合い、シーサーや食器を作ってきた。
壺屋陶器事業協同組合によると、壺屋焼全体として原材料の白土の不足と後継者不足が課題となっている。業界の課題を乗り越え、壺屋焼の存続に向けて、組合員の昇さんは毎年、シーサーの日の実演販売に協力している。「お客さんからよく『どんな気持ちで作っているか』と聞かれるが、実は無心で作っている。良くも悪くも焼き物には作者の気や健康状態が入ってしまう。淡々と無心で作ることを心掛けている」と説明する。

マスコット的シーサー作りの先駆
土を触っていると「こういうものを作りたい」とアイデアが浮かんでくるという。ジャズ好きの昇さんは、シーサーに楽器を持たせたところ客に好評だった。ほかにもピースをしたシーサーなどがいる。マスコット的なシーサーを作った先駆け的存在だ。
昇さんにはこだわりがある。怒り顔のシーサーではなく、笑った目や穏やかな顔など表情豊かなシーサーを作っている。「シーサーが自分と似てるとよく言われる」という昇さんは、「子供みたいな存在のシーサーが買ってくれた人々の元へ広がっていくのは喜びだ」と笑顔で語った。加齢に伴って制作数は減少しているが、健康が続く限り制作を続けていきたいという。
昇さんの作品は那覇市壺屋の「壺屋陶芸センター」などで販売している。





