
南部戦跡に次いで、沖縄の研修旅行の目的地として選ばれているのは沖縄本島中西部の読谷村(よみたんそん)だ。見渡す限りのサトウキビ畑と、その先の青い海が広がる美しい景色を楽しめる。
定番の訪問先には、琉球国時代にできた座喜味城跡のほか、沖縄戦で住民が避難した自然洞窟のチビチリガマとシムクガマがある。米軍が上陸すると、狭い洞窟に数百人が避難した。チビチリガマでは集団自決という悲劇が起こり、シムクガマでは住民が投降して生き延びた。生徒らは生死を分けた違いを学んでいる。地元メディアや左翼学者らはチビチリガマの集団自決を「強制集団死」と称し、史実とは違って軍の関与があったかのように説明している。
沖縄の社会問題に詳しい批評家の篠原章氏は、糸満市の南部戦跡巡りに続いて平和学習の柱を築いたのは読谷村だと指摘している。
〈1990年代初頭、読谷村のチビチリガマに注目して案内してくれたのは読谷の人ではなく、コザ(沖縄市)に住むミュージシャンの照屋林助氏だった。沖縄戦の最中にガマで起きた事件に深く心を痛めており、ガマを案内することは御霊(みたま)に対する弔いの気持ちの表れだった。
やがてメディアがチビチリガマに注目するようになり、読谷の人々がガマを整備して、安全に見学できるようにしてくれた〉
その後、「これは商売になる」と考えた人たちが、チビチリガマと米軍の巨大な円形アンテナ「象の檻(おり)」(2007年に解体済み)を使った「戦争の記憶」のビジネスモデルをつくった。政治的なアジテーションも絡めることで、商売らしさを薄めた。
今回の事故をきっかけに、官民を巻き込んだ「平和運動ビジネス」ネットワークが、反基地平和運動が縮小していることと反比例して膨らんでいることに、篠原氏は驚きを隠せずにいる。
修学旅行生を民家で受け入れる「教育民泊」もビジネスの一つと捉えることができる。修学旅行中に生徒が4~6人ずつ地域の一般家庭に分かれて宿泊し、生活体験を行っている。読谷村の民泊は、沖縄県の外郭団体・沖縄観光コンベンションビューローが運営する修学旅行サイトで案内され、多くの学校が利用している。過疎地域にとっては町おこしとなり、学校としてはホテル代を抑える経費削減策となる。民泊を利用する学校が増加傾向にあるのはこうした背景からだ。
同志社国際高校の沖縄研修のうち、複数のコースに読谷村での民泊が含まれていた。船転覆事故後の記者会見で西田喜久夫校長は、「民泊では生徒たちの心的なケアも難しい」と判断し、急遽(きゅうきょ)ホテルを確保したことを明らかにした。
「おじぃ」「おばぁ」として親しまれる沖縄のシニアとの交流といった家庭的な民泊のイメージが先行するが、実態はそうでもなさそうだ。沖縄の平和教育や民泊は、「平和を学ぶ」という理念が先行するあまり、民泊に名乗りを上げる人は革新的思想を持つ傾向が強いという報告もある。
読谷村は沖縄県内でも屈指の革新地盤だ。西田氏は、過去に民泊先の一部が「政治的に極端過ぎる」との声が生徒や保護者からあり、次年度以降の受け入れから外すよう依頼した事例もあったことを認めている。
さらに、教育民泊ガイドラインで推奨されるスマートフォンやSNSの使用制限により、緊急時に連絡できなくなるなど、現代のライフスタイルと懸け離れた状況に、不満や不安が広がっている。民泊を巡り安全・安心面での課題が浮き彫りになっている。
(沖縄平和教育問題取材班)
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