トップ国内沖縄【連載】検証・沖縄平和教育(3)被害者史観に変容した戦跡巡り

【連載】検証・沖縄平和教育(3)被害者史観に変容した戦跡巡り

沖縄戦における犠牲者の刻銘碑「平和の礎」の前で手を合わせる遺族=沖縄県糸満市の沖縄県平和祈念公園
沖縄戦における犠牲者の刻銘碑「平和の礎」の前で手を合わせる遺族=沖縄県糸満市の沖縄県平和祈念公園

 沖縄県の発表によると、2024年度には国内の約2000校(約35万人)が修学旅行先に沖縄を選んでいる。そのうちのほとんどが平和学習のためとみられる。

 訪問先の定番は、沖縄戦終焉(しゅうえん)の地、沖縄本島南部糸満市の沖縄戦跡巡りだ。同志社国際高校は沖縄研修の2日目、同市のひめゆり平和祈念資料館と沖縄平和祈念公園を訪問した。

 昨年5月、西田昌司参院議員(自民)は那覇市で行った講演で、女子学徒隊の犠牲者を祀(まつ)るひめゆりの塔やひめゆり平和祈念資料館について「歴史が書き換えられている」などと発言し、波紋を広げた。この発言に対し、地元メディアや平和活動家らから糾弾された西田氏は謝罪や修正を迫られた。西田氏の発言の趣旨は、「日本軍だけが悪で、米軍が沖縄を解放した」という単純化を危険視し、戦後のアメリカ占領政策や自虐史観の影響を受けた展示と教育の在り方を問題視したものだった。

 現在の沖縄県平和祈念資料館は、被害者史観に基づいているが、開館した1975年当時は、「皇軍の顕彰」を主眼とした展示構成だった。

 そのわずか3年後の78年、「証言の部屋」が設けられ、住民被害を中心とした展示へと様変わりした。大田昌秀元知事など一部の左翼政治家や学者、沖縄県教職員組合らが沖縄戦の展示の主導権を握った結果、同館のコンセプトが「顕彰」から「慰霊」にシフトしたのだ。

 2000年4月に新資料館がオープンする際、専門家らで構成される監修委員会が「住民に銃を向ける日本兵」の人形展示を計画していた。当時の稲嶺恵一知事や県幹部の意向を受け、最終的に日本兵の銃が取り除かれた経緯がある。「当時の状況を正確に表現しつつ、特定の視点に偏らないようにした」措置だが、左翼学者やメディアは激しく反発した。

「慰霊の日」の追悼式を妨害しようとする反基地活動家=沖縄県糸満市の平和祈念公園
「慰霊の日」の追悼式を妨害しようとする反基地活動家=沖縄県糸満市の平和祈念公園

 40年以上平和ガイドを務めた経験を持つ名護市在住の新島メリーさんは、沖縄平和祈念公園について▼平和祈念資料館の偏向展示▼沖縄戦の犠牲者数の水増し▼沖縄戦と関係なく亡くなった人々の名前をも刻む石碑「平和の礎(いしじ)」の在り方―を放置できない問題と指摘し、関係各所を通して改善を求めている。

 ガイドが反日反米思想に偏っていることも問題だ。主に修学旅行生や一般団体を対象にガマ(自然洞窟)や南部戦跡、米軍基地周辺などの案内・講話を行っている沖縄県平和ガイド協会は今年3月に勉強会を開き、糸数慶子元参院議員と石原昌家・沖縄国際大学名誉教授を講師に招いた。糸数氏は現在の形の平和ガイドを確立させたとされる人物として知られている。石原氏は、旧日本軍を敵視し、「虐殺の島―皇軍と臣民の末路」(晩聲社)などの著作や大学の授業などを通して旧日本軍幹部らを断罪している。

 「1972年の本土復帰後、現役の教職員がツアーガイドを務めるようになり、平和ガイドの反戦反基地運動や反日反米思想がエスカレートしてしまった」

 新島さんはこう語る。何度も高校生や大学生を案内するに当たり、自身を当時の少年少女らに当てはめて考えてもらう工夫をしてきた。ほとんどのガイドが組織的な教育で「日本軍悪し」の説明をする中で、一方的な考えを伝えないよう努力してきたという。

 沖縄で体系化された「平和教育」とは、沖縄戦における旧日本軍に対する徹底的な批判であり、反米軍基地、反自衛隊なのだ。

 日本を取り巻く厳しい安全保障環境を一切無視し、丸腰であるのが美しいかのような一方的な価値観を教えるだけでいいのだろうか。西田氏の指摘は、沖縄研修の在り方に警鐘を鳴らしたと言えよう。

 (沖縄平和教育問題取材班)

【連載】検証・沖縄平和教育(1)左翼思想がミッション系に浸透

【連載】検証・沖縄平和教育(2)安全管理意識欠く県・反対協

【連載】検証・沖縄平和教育(4)平和ビジネス築いた読谷村

【連載】検証・沖縄平和教育(5)集団自決伝える「怖い絵」

【連載】検証・沖縄平和教育(6)「住民は辺野古移設容認」

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »