トップ国内沖縄戦没地に義烈空挺隊の顕彰碑を 沖縄県護国神社で講演会

戦没地に義烈空挺隊の顕彰碑を 沖縄県護国神社で講演会

講演する奥本康大氏=8日、沖縄県那覇市の沖縄県護国神社
講演する奥本康大氏=8日、沖縄県那覇市の沖縄県護国神社

 太平洋戦争末期の沖縄戦で、熊本から沖縄へ向けて出撃した旧日本陸軍の特殊空挺(くうてい)部隊「義烈(ぎれつ)空挺隊」を追悼する慰霊・顕彰の集いが8日、那覇市の沖縄県護国神社で開かれた。空の神兵顕彰会の奥本康大会長や、波上宮(那覇市)の大山晋吾宮司らが登壇し、隊員らが戦死した場所に「顕彰碑建立を」と呼び掛けた。

(沖縄支局・川瀬裕也、写真も)

 義烈空挺隊は、沖縄戦で米軍が占領した北飛行場(現・読谷中学校周辺)や中飛行場(現・米軍嘉手納基地)に夜間、強行着陸することによって、停機中の航空機や米軍関連施設を破壊する任務を受けた特殊空挺部隊。

 1945年5月、同隊員168人を乗せた12機の爆撃機が熊本県の健軍飛行場を出撃。沖縄で米軍の激しい対空砲火と迎撃によりほとんどが撃墜されながらも、1機が着陸に成功。米軍の記録によると、航空機33機に損害を与え、7万ガロンのガソリンを燃やすなどの戦果を挙げた。

 戦後、隊員が戦死した旧北飛行場跡地には「義烈空挺隊玉砕之地」碑が建立され、遺族や有志らが毎年慰霊祭を続けてきた。

 ところが2010年代、読谷村が読谷中学校の新校舎建設計画を進める中で、慰霊碑が予定地に含まれることが判明。村は土地利用調整を理由に、慰霊碑の移転を要請した。遺族らは、「隊員が戦死した場所に慰霊碑を残したい」と現地保存を求めたが、協議の結果、移転が決定された。

 新たな移設先は、読谷村役場近くのサトウキビ畑の一角で、元の戦没地からは離れている。慰霊碑周辺には戦跡であることを示す案内や説明も最小限で、碑は石製ではなく木柱で建てられ劣化が進んでいるという。

 読谷村はあくまで土地利用計画上の判断と説明しているが、村が反戦・平和を強く掲げる自治体であることから、「戦争や軍に関する記憶を前面に出したくない思惑があったのではないか」と一部関係者から指摘されている。

 8日の集会で登壇した奥本氏は、顕彰碑移転の経緯を振り返り、「沖縄のために戦った英霊たちの尊厳を踏みにじる行為だ」と強く批判した。

掩体壕横に移設された「義烈空挺隊玉砕之地」碑=沖縄県読谷村(資料)
掩体壕横に移設された「義烈空挺隊玉砕之地」碑=沖縄県読谷村(資料)

 「彼らの功績を後世に残せなければ、英霊たちを『二度死なせる』ことになってしまう」と主張し、隊員たちの正式な戦没地である読谷中学、役場横に慰霊碑を建立し、慰霊・顕彰の取り組みを次世代につなげていこうと呼びかけた。

 「いま甦る特攻精神!」と題して講演した大山氏は、「沖縄で特攻の話をすると、『ウチナーには関係ない』などと言う人がいるが、それは大きな間違い」だと指摘。若い特攻隊員らが残した辞世の句や手紙などを紹介しながら、「日本全土から多くの若者が、沖縄を守るために勇敢に特攻に飛び立った」と語った。

 また大山氏は、「戦前の沖縄の多くの家庭には天皇陛下の御尊影(写真)が飾られていた」とする歴史や、陛下が近年沖縄を御訪問された際、大勢の県民が奉迎に集まった事例などを挙げ、「沖縄は日本一の愛国県であり、日本一皇室を敬う県だ」と強調した。

 集会ではこのほか、日本兵として戦った台湾出身者にも、慰霊・顕彰の光を当てていくべきだとする提言などがあった。

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