
那覇市の神社・波上宮の境内には、昭和天皇の御製「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」が刻まれた碑がある。戦後、沖縄御訪問を果たせなかった昭和天皇の無念な心境が詠まれている。
しかし昭和天皇は、一度も沖縄の地を踏むことができなかったわけではなかった。実は即位される前に、一度沖縄を訪問されたことがあるのだ。その立役者となったのが沖縄出身の海軍艦長・漢那憲和(かんなけんわ)だった。
貧しい家庭の長男として誕生した漢那は小学校の頃から成績優秀で、次々と飛び級を果たし、首席で沖縄第一中学(現・首里高校)へ進学した。1896(明治29)年には沖縄県出身者として初の海軍兵学校入学を果たし、巡洋艦の航海長や指導教官を務めた。
そして1920(大正9)年、裕仁皇太子(当時)の御外遊の御召艦「香取」艦長の命が下った。当時、皇太子の御外遊は日本の歴史上初めてのことだった。
漢那はこれを絶好の機会と捉え、皇太子の沖縄寄港を懇請した。漢那の熱心な働き掛けと、貞明皇后(大正天皇の后〈きさき〉)や皇族の願いなどもあり、横浜港出航後に、急遽(きゅうきょ)首里行啓が決まったという。
艦隊は沖縄・中城湾から与那原に上陸。皇太子は漢那と共に与那原駅から軽便鉄道の特別列車で那覇に入られた。県庁での記念植樹や、首里城御観覧などの日程を終え、夕刻に艦隊は同港を出港した。
与那原町に立つ、これらの史実を記した「東宮殿下御上陸記念碑」(2018年建立)には、漢那の名前も刻まれている。
予定外だった御召艦の沖縄寄港を実現させ、郷土に皇太子をお迎えした漢那の功績は、皇室と沖縄の絆を紡いだ大きな一歩として、これからも語り継がれていくべきだ。
(K)






