
太平洋戦争末期の沖縄戦で、苛烈を極めた激戦地、伊江島での戦闘が終結した日から80年となる21日、島内の慰霊塔「芳魂之塔」で、伊江村主催の「平和祈願祭」が行われた。同日、第11管区海上保安本部主催の伊江島灯台での殉職者慰霊式も執り行われ、戦闘と職務中に命を落とした人々への慰霊と平和への祈りが捧(ささ)げられた。(沖縄支局・川瀬裕也)
沖縄本島本部(もとぶ)半島の西海上約5㌔に位置する伊江島は、飛行場を有していたことから、米軍によって沖縄本島上陸作戦の拠点として位置付けられ、激しい攻防戦の舞台となった。度重なる空襲や艦砲射撃で追い詰められた伊江島に米軍が上陸したのは1945(昭和20)年4月16日。軍民入り乱れて戦闘が激化し、21日に戦闘が終結するまでのわずか6日間の地上戦では、旧日本軍の兵士約2000人と住民約1500人が犠牲となった。
特に城山南方の学校陣地(現・伊江中学校)付近は米兵たちが「血ぬられた丘」と名付けたほどの激戦が繰り広げられ、苛烈を極めた伊江島の戦いは「沖縄戦の縮図」とも呼ばれる。
21日、「芳魂之塔」で行われた平和祈願祭では、午後1時のフェリーの汽笛に合わせ、参列者全員で1分間の黙祷(もくとう)が捧げられた。名城政英村長は、「『沖縄戦の縮図』とも言われた伊江島戦から80年の長い歳月を経ても、今なお癒えることのない遺族の心情に接すると心が痛む。人類普遍の願いである恒久平和を誓い、哀悼の誠を捧げる」と語った。
式典では玉城デニー知事をはじめ、参列者らが慰霊塔に献花を行ったほか、伊江中学校の生徒によるコカリナ(戦時中に身を隠していた日本兵の命を守ったとされるガジュマルの木で作られた楽器)の演奏なども行われた。
式典に参列した島袋満英さん(89)は、義勇隊として戦い17歳の若さで犠牲となった兄・満吉さんについて、「勇んで日本軍と行動を共にし、軍服まで貰(もら)ったことを誇りに思っていた」と語った。当時9歳だった満英さんは、家族と自然壕(ごう)に隠れていた際、「煙を出してはいけないから、生の米を食べていた」と過酷な生活を振り返り、兄の名前が刻まれた礎に花を手向けた。
疎開途中で家族が離散し、兄と姉が犠牲になったという大城恵子さん(85)は、「混乱した状態で避難どころではなかった」と当時を振り返り、「同じ過ちを繰り返さないように、国はどんな時でもしっかりと命を守れるようにしなければならない」と、国民保護の重要性を強く訴えた。
平和祈願祭の後、同島北西の伊江島灯台では「伊江島灯台殉職者慰霊の式」が執り行われ、遺族のほか玉城知事や名城村長、海保、米軍関係者らが参列した。
伊江島灯台は、鹿児島・沖縄・台湾間の航路の安全確保のため、1897(明治30)年に「東洋一の灯台」として明治政府が設置した。しかし沖縄戦における空襲で灯台は破壊され、勤務していた灯台職員3人とその家族5人の計8人が殉職した。その後、同灯台は終戦と同時に米軍施政下に入り、慰霊できない状態となったが、1977(昭和52)年に灯台構内に慰霊之碑が建立され、現在に至るまで、毎年海保が慰霊の式を執り行っている。
主催した第11管区の坂本誠志郎本部長は、「激しい戦火に見舞われながらも、灯台守の責務を果たすべく、最後までとどまり、尊い命が失われた。御霊(みたま)に対し、謹んで慶弔の誠を捧げる」と追悼した。

戦後80年の節目となった今年の式典では、故田中吉樹灯台長の孫に当たる遺族の田中淳登さん(65)が初参加した。淳登さんは式典後、世界日報などのインタビューに応じ、殉職した吉樹さんについて、「父(吉樹さんの長男)からもほとんど聞かされたことがなかったが、初めて灯台を訪れると、熱く込み上げてくるものがあった」と語った。
淳登さんは、式典に在沖米軍関係者も同席していることに触れ、「米軍と共に式に参列できる平和な時代を迎えられた尊さを改めて実感した」と目を細めた。
戦争を経験した世代の高齢化が進む中、伊江島の戦争の教訓をどう継承し、次世代へ繋(つな)げていくかが問われている。