トップ国内【連載】少子化の深層を探る(上)3年で終わったベビーブーム、背景にGHQの産児制限方針

【連載】少子化の深層を探る(上)3年で終わったベビーブーム、背景にGHQの産児制限方針

日本の人口増加に危機感

 日本の少子化に歯止めがかからない。総務省が発表した2025年速報値によると日本の人口は5年間で約310万人減った。これは日中戦争開始から第2次世界大戦終結までの1937~45年における戦争による死者数(軍人・軍属・民間人など)とほぼ同規模だ。少子化は他の先進国でも見られるが、日本のペースは戦争級の速さであり、そこには敗戦国・日本だけの要因があったと言われる。それは何か。少子化を食い止める道はあるのか。(宮田陽一郎)

出生数と合計特殊出生率の推移
出生数と合計特殊出生率の推移

 厚生労働省が6月に公表した2025年の日本人の人口動態統計によると、昨年の出生数は67万1236人で、統計がある1899年以降の最少を10年連続で更新。1人の女性が生涯に産む見込みの子供の人数を示す合計特殊出生率も1・14と過去最低だった。

 1975年以降、出生数は減少傾向が続き、2016年に100万人を下回った。24年に初めて70万人を割り、25年は前年と比べ1万4937人減った。戦後最多だった269万6638人(1949年)の4分の1にも達しないという極めて深刻な状況だ。

 日本で少子化問題が注目されるようになったきっかけは、90年の「1・57ショック」だった。「1・57ショック」とは、89年の合計特殊出生率が、それまで最低だった66年の1・58を下回る1・57だったことが公表された事象を指す。政府はこれ以降、94年の「エンゼルプラン」や99年の「新エンゼルプラン」をはじめ、さまざまな少子化対策を進めてきた。

 第2次安倍政権は地方創生を打ち出し、少子化対策と東京一極集中の是正に取り組んだ。だが人口減少を食い止めることはできず、総務省の今年7月の発表によれば、今年1月1日現在の日本人の人口は前年から90万人以上減少し、ついに1億2000万人を割ってしまった。

著しい国力低下へ

 このまま人口減少が進めば、労働力不足や経済規模の縮小、社会保障制度の維持困難などを招くだろう。安全保障体制にも重大な影響をもたらし、日本の平和を守ることも難しくなりかねない。国力の著しい低下が懸念される。

 少子化の原因として指摘されるのは、未婚化や晩婚化、経済的負担の増加などだ。戦後に行き過ぎた個人主義が蔓延(まんえん)し、一部に結婚を忌避する考え方が広がったことも一因だろう。しかし日本の少子化がこれほど急速に進んでいるのは、実は他にも理由があるのだ。

 かつて旧厚生省で児童家庭局企画課長を務め、人口問題に詳しい大泉博子元衆院議員は以前、次のような疑問を抱いていたという。

 「第2次世界大戦後は、欧米の国々は敗戦国ドイツも含め、ほぼ10年にわたるベビーブームをもたらした。ちなみに韓国は、朝鮮戦争後の55~63年がベビーブーム世代と言われ、9年と長い。しかし、なぜ日本はたった3年で終わったのか」

 確かに日本のベビーブームが47~49年の3年であるのに対し、米国は46年から64年まで約20年も続いた。戦勝国と敗戦国という立場の違いだけで、これほど大きな差が出るのか。誰が見ても不自然極まりないデータである。

旧連合国軍総司令部(GHQ)が入っていた第一生命日比谷本店。=2015年4月22日、東京都千代田区(時事)
旧連合国軍総司令部(GHQ)が入っていた第一生命日比谷本店。=2015年4月22日、東京都千代田区(時事)

 大泉氏はその背景に、終戦後に日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)の政策があったことを指摘する。GHQの「日本を徹底的に潰(つぶ)す」政策の一つとして「41年の人口政策確立要綱の『産めよ殖やせよ』方針を潰すこと」があったというのだ。

 GHQは日本が戦争を起こした原因を、戦前の人口過剰だと分析した。当時の日本は現在と違って人口の多さに悩んでいた。政府も国民も、狭小で資源に乏しい国土では人口増加で食べていけなくなるとの不安を抱いていた。GHQは戦後も日本の人口が増え続ければ、国民を養うため、再び海外に軍事進出する恐れがあると考え、日本の人口増加を抑える方針を採ったのだ。

戦前は出産奨励

 ここでGHQの方針について説明する前に、戦前の日本の人口政策に触れる必要がある。

 昭和初期、世界大恐慌の影響で深刻な経済不況に襲われると、日本では人口問題への対応が喫緊の課題となった。一方、22年に米国の産児制限活動家マーガレット・サンガーが来日したことでメディアが産児制限を大きく取り上げ、日本でも人口過剰への対策の一つと位置付けられるようになっていた。

 ところが、これに激しく反発したのが軍部だ。軍部が政治への影響力を強めるようになると、産児制限は「危険思想」と見なされるようになる。当時は人口規模が戦争の行方を大きく左右した時代だった。

 そして41年には「昭和三十五年総人口一億」の目標を掲げた人口政策確立要綱が閣議決定された。「昭和三十五年」は60年だ。要綱は、婚姻年齢を3年早め、1組の夫婦の子供は平均5人とすることを目指すというものだった。「産めよ殖やせよ」の出産奨励策である。多子家庭への表彰制度も全国で展開された。

 その後、日本は戦争に敗れた。GHQは日本の人口増加を抑えるため、産児制限の普及を図ろうとした。

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