トップ国内【連載】漫画で疑似体験する「日本人拉致」(中)スパイ防止法ない逮捕の顛末

【連載】漫画で疑似体験する「日本人拉致」(中)スパイ防止法ない逮捕の顛末

 漫画『俺Antif@拉致ゲーの強制イベントから逃げられません。』(以下『拉致ゲ』)、晩聲社)の作者である富田安紀子さんは「拉致の被害者は何人もいる。全部描きたいとも思ったが、そうはいかないので主人公のモデルである辛光洙(シングァンス)の事件を最初に持ってきた」と振り返る。

東京都三鷹市の休日の街中。1977年に起きた宇出津事件の被害者である久米裕さんは同市役所の警備員だった。漫画では久米さんが市内の喫茶店で、工作員からうそのもうけ話を持ち掛けられる場面が出てくる=東京都三鷹市
東京都三鷹市の休日の街中。1977年に起きた宇出津事件の被害者である久米裕さんは同市役所の警備員だった。漫画では久米さんが市内の喫茶店で、工作員からうそのもうけ話を持ち掛けられる場面が出てくる=東京都三鷹市

 作品内では「拉致」というデスゲームを強制された主人公が、自身の死を回避するため否応(いやおう)なしに拉致を遂行するのだが、取り上げられるケースはすべて実際に起きた事件を基にしている。上巻と下巻に分かれているが、上巻で取り上げられているのは主に二つの拉致事件。どちらも主人公となる工作員のモデル・辛光洙が関わった事件だ。

 最初のケースは、大阪府在住の調理師だった原敕晁(ただあき)さん=失踪当時43歳=が1980年6月、宮崎県青島海岸から北朝鮮に拉致された「辛光洙事件」。原さんは貿易会社の社員募集という誘い文句で「採用面接」に出席し、その流れで「貿易会社の社長の別荘に招待」され、同海岸で工作船へと運び込まれた。

 作中で原さんは、兄思いの実直で善良な男性として描かれながらも、しがらみもなく誘拐されやすいステレオタイプな人物として登場。ゲーム上でのいわゆる「チュートリアル」(導入部分)の役割を果たしている。

 この事件で奪われた原さんの身分は、その後辛光洙に利用された。同作でもこの点が強調され、北朝鮮側の登場人物が「拉致の究極の目的は対南政策のための身分獲得とパスポート入手」「拉致なんぞつまりは下ごしらえに過ぎない」と発言し、辛光洙に転生した主人公が嫌悪感を抱くという場面も出てくる。

 さらに前半のクライマックスで、物語全体でも特に力を入れているのが、77年9月に東京・三鷹市役所の警備員だった久米裕さん=失踪当時52歳=が、石川県の宇出津(うしつ)海岸に連れ出されて拉致された「宇出津事件」だ。全20話のうち6話を使い、工作員側の動きのみならず、調査に乗り出した地元警察の動きも併せて描写した。刑事ドラマさながらの展開となっている。

 警察はスパイ活動を裏付ける乱数表や暗号表などを押収し、久米さんを北朝鮮に引き渡した在日朝鮮人の工作員を外国人登録法違反で逮捕したものの、結果として不起訴処分となった。富田さんは「すごく大きな事件だった。拉致問題全体で見た時、ここでの国や警察の対処が違っていれば、その後に起きた横田めぐみさんの事件など、拉致の様相も変わっていたのではないか」と指摘する。

 作品内では久米さんの拉致を遂行した主人公が、日本側の対応に思わず「馬鹿じゃねえのか」「ここまで材料揃ってて釈放って!」「一人の人生盗んだ報い無しだぞ」と自暴自棄に叫ぶ場面が印象的だ。「主人公には私の言いたいことを言わせた。いくら何でもこれが通るのは日本だけ」と富田さんも嘆く。

 さらに富田さんは拉致の資料を調べる中で「能登半島付近は『銀座』と表現されるほど、多くのスパイや工作員が潜り込んでいたことを知った。スパイ防止法もない日本で、本当に今も拉致事件が起きていないのか不安だ」と訴えた。

 評論家の三浦小太郎氏は4月、東京都武蔵野市内で開かれた『拉致ゲ』の出版記念イベントに出席し、「現場の警察官のやりとりを現地の方言を交えて再現し、当時の事件現場や捜査の過程をリアルにストーリーとして組み立てている」と称賛。三浦氏は、さまざまな人々の証言によって明らかとなった拉致問題という現実が「次の世代に漫画を通じて引き継がれていくのはすばらしい」と期待を込めた。(石井孝秀)

【連載】漫画で疑似体験する「日本人拉致」(上)前代未聞 主人公が拉致実行犯

【連載】漫画で疑似体験する「日本人拉致」(下)「土台人」や赤軍派の協力描写

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