「炎上」覚悟の世論喚起
北朝鮮による日本人の拉致事件を巡り、被害者家族の高齢化や拉致を知らない若者世代の増加などが懸念されている。被害者の救出に向けて、拉致問題に関する世論喚起と風化防止が求められる中、北朝鮮工作員を主人公に据え、拉致問題を描いた異色の漫画が出版された。拉致事件を「疑似体験」できる前代未聞の漫画はどのように誕生し、何を訴えようとしているのかをまとめた。(石井孝秀)

「拉致ほど漫画にしづらいものはない」
漫画家の富田安紀子さんはそのように話す。今年2月、富田さんは自身がインターネット上で公開していた漫画『俺Antif@拉致ゲーの強制イベントから逃げられません。』(『拉致ゲ』)を晩聲社から出版した。
この物語の主人公は保守を目の敵にする左翼活動家の男で、外国人差別撤廃を叫びながら各地で過激なデモ活動などを行っている。北朝鮮の拉致問題を「終わった事件」「北朝鮮への差別」「ネトウヨの妄想」と決め付け、自身の言動を「絶対的正義」と信じて疑わない日々を送っていた。
ある日、交通事故に遭った活動家の男は、昭和時代へとタイムスリップ。しかも、拉致を実行するため潜伏していた北朝鮮工作員に転生してしまった。それだけでなく、工作員として拉致を成功させなければ「死」を迎えるという、謎のデスゲームを強制されることとなる。
ともすれば「不謹慎」という一言で片付けられそうな物語だが、今まで拉致問題に関心のなかった層にも関心を持ってもらうために「とりあえず炎上させよう」(富田さん)という狙いもあった。
富田さんに北朝鮮の拉致事件を漫画で取り上げることを持ち掛けたのは、民間団体「特定失踪者問題調査会」の荒木和博代表。拉致問題の解決に向けて「打てる手はすべて打ちたい」という取り組みの中での提案だった。
この提案を無償で請け負った富田さんだったが、未解決の問題を扱いつつ、読者がカタルシス(爽快感)を感じるように描くのは非常に難しかったという。発想の転換となったのは「工作員の仕事として拉致事件を描く」というアイデアだった。若者世代のニーズを意識して、「ゲーム」や「異世界への転生」という要素を入れつつ、2020年6月に第1話をインターネット上で発表。1年3カ月ほどかけて全20話、400ページ超の作品をまとめ上げた。22年から書籍化の話が出て、荒木氏の協力もあり今年の出版に至った。
主人公の転生する工作員のモデルには、原敕晁(ただあき)さん=1980年失踪当時43歳=などの拉致に関わった辛光洙(シングァンス)(韓国で死刑が確定するも後に釈放、北朝鮮へ送還)を選択。活動家として拉致を嘲笑してきた男が、人々の人生を奪う犯罪を強制され罪悪感に苦しむという展開を通じ、拉致問題の恐怖や不条理を描いているのは同作の見どころの一つだ。
政府認定の拉致被害者のほか、拉致の可能性を排除できない「特定失踪者」、留学中の有本恵子さん=83年拉致当時23歳=を拉致したよど号ハイジャックメンバーらも取り上げており、拉致問題の全体像も学べる。
一方で、資料の少なさは作品を作る上で課題の一つだった。事件関係者の写真が残っていることの方が少なく、その場合は登場人物の顔や性格を想像で描き上げた。富田さんは「私の捏造(ねつぞう)と妄想」でカバーしたと苦笑する。
また、400ページ超という長編ながら、作者本人としては「思ったよりも反応がなかったので途中で打ち切った」のだという。それでも「これだけは描かなければ」とアイデアを詰め込み、壮大なストーリーとして違和感なく完結させたのが同作だ。
さらに続いていれば、朝鮮学校の関係者も交え、北朝鮮のさまざまな工作組織を登場させるなどの構想もあった。「日本海で失踪した息子に会うため、北朝鮮まで行った母親・寺越友枝さんのパワフルなエピソードなど、やろうと思えばいくらでも続けられるのだが」。富田さんは残念そうな表情を浮かべた。
荒木氏は自身のユーチューブチャンネルの中で、「よくここまで調べた」と驚きの言葉を口にする。「フィクションのため実際とは異なる点はあるが、イメージは捉えやすい」と評価し「漫画でも落語でもいいから使って現状を突破すべきだ」と強調した。







