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米国の宗教と政治 「神の命令」に従う福音派

 クリスマスシーズンだ。キリスト教徒が少ない日本でもクリスマス会がさまざまな場所で行われる。忘年会もクリスマスのお祝いを兼ねて行われることもある。

 非信者がパーティー気分で「メリークリスマス!」と叫んでもひんしゅくを買うことのない日本の年末風景とは対照的に、キリスト教国の米国では1980年代後半から、公共の場でこの言葉は使いにくくなり、代わってこの時期のお祝いのあいさつは「ハッピーホリデー」になっている。米国社会のリベラル斜傾の影響で、他の宗教や無宗教の国民に配慮せざるを得なくなったからだという。

 リベラルな価値観に反する言動をした人物を公共空間から排除する、米国の「キャンセル・カルチャー」や、政治的な正しさを追求する「ポリティカル・コレクトネス」(ポリコレ)は日本にも上陸しているが、米国のクリスマスシーズンの様変わりは、広義にはこれら左派の社会運動と関わりがあるのかもしれない。

 建国以来、政治や社会生活と深く関わってきた米国の憲法が政教分離を定めているのは、政治の介入から、最も重要な基本的人権である信教の自由を守るためだった。しかし、皮肉にもそれが価値相対主義、世俗的な人間中心主義に変質し、ひいてはキリスト教文化が公共空間から締め出されるようになった米国と、「聖」なる行事をいとも簡単に消費文化として吸収してしまう日本。どちらの国が思想・信条に寛容な宗教文化を持っているのか、分からなくなってしまう。

 街角から流れてくるクリスマスソングを耳にすると、この時期ばかりは世俗から離れたくなる筆者は月刊誌最新号2026年1月号で、米国における宗教と政治との関わりを考えさせる一つの論考に注目した。思想史・宗教学を専門とする立教大学教授、加藤喜之の「『殉教者』カークと宗教化するアメリカ政治」「中央公論」)だ。

 カークは今年9月、米国の大学キャンパスで講演中に暗殺されたキリスト教福音派の保守政治活動家チャーリー・カークのこと。加藤は3カ月前、同誌を発行する「中央公論新社」から「福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会」を上梓(じょうし)し注目を集めている。

 今年は福音派を支持基盤とする第2次トランプ政権が発足し、またトランプのホワイトハウス返り咲きに功績があったカークが暗殺されたことが重なり、日本の論壇では米国のキリスト教と政治との関わりについての論考が目立った。筆者も本欄で3度取り上げたが、加藤の論考を題材にもう一度、米国における福音派の理念から政治的動きを整理し今年最後の本欄を締めくくりたい。

 加藤は「米国社会とは大きく異なる文脈を持つ日本の私たちにとって、カークの死が合衆国にもたらしつつある変化を正確に理解するのは容易ではない」と述べている。確かに、クリスマスや初詣を季節行事や生活習慣として受け入れる一方で、確固たる信仰心を持つ人の割合が少ない日本では、キリスト教の価値観を内面に留めることなく、社会に浸透させようと熱心に政治活動を繰り広げる福音派については違和感を持って受け止める人が少なくないはずだ。

 私たち日本人が持つ「米国と大きく異なる文脈」について、加藤は説明していないが、筆者の解釈では、たぶん次のようなものではないか。

 キリスト教のように、絶対的な神の存在を前提で成り立つ教理・神学から演繹(えんえき)的に発想する米国の宗教文化と違い、日本人は理念よりも家族の絆や共同体の秩序を優先的に捉える文化を持つ。集団を覆う〝空気〟を読まずに論理的な正しさだけを主張しても受け入れられないことが珍しくないのは、この文化のためだ。社員の親睦を深めるために開くクリスマスパーティーを「私はクリスチャンじゃない」と参加を断ろうものなら、たちまち〝変人〟の烙印(らくいん)を押されるはずだ(最近は忘年会を自由参加とする企業が増えているが)。米国を理念国家とすれば、日本は〝空気文化〟の国と言えるだろう。

 宗教保守派とリベラルな人間中心主義の理念が対立し分断を深める米国について、加藤はカークら福音派の活動と彼の暗殺事件を中心に据えて読み解いている。福音派とは、一般的には聖書を神の言葉として文字通りに受け止めるプロテスタントの信仰運動と説明される。カークが大学を中心に熱心な政治活動を繰り広げた理由について、加藤は米国人学者らの調査分析を引用しながら分かりやすく解説する。

 第一に、カークは福音派の中でも「神とサタンによる霊的戦いの実在を信じ、癒しや異言といった超自然的な神の働きが現代にも継続しているとみなすカリスマ派」で、さらにその中でも「七つの山に関する命令」を重視するグループに属する。七つというのは教育、家庭、宗教、ビジネス、メディア、エンターテインメントで、これらの分野に保守的なキリスト教の価値観を浸透させることを活動の目標とする。

 そんな特徴を持つカリスマ派では1990年代以降、「新使徒運動」の集団が影響力を増し、それが「トランプの岩盤支持層」になっている。その一人がホワイトハウス信仰局の上級顧問に就任したポーラ・ホワイト牧師だという。

 特に、カークが「最重要の戦場」としたのが教育だった。60年代、政教分離が厳格化されて公教育での祈祷(きとう)や聖書拝読などが禁止された上、大学でもキャンセル・カルチャーによって保守的な言論が排除されるようになる。カークはそれに抵抗して言論の自由を勝ち取るために、大学でリベラルな学生らを論破する活動を活発化させていったのだ。

 こうして見ると、カークら福音派の政治的な活動は、世俗化・左傾化する米国社会に対する「アンチ・キャンセル・カルチャー運動」であり、キリスト教国家ならではの動きと言える。しかし、加藤によれば、カークが暗殺されたことで、彼は「殉教者」となった。そして今度は、保守派による左派排除が加速し、左右の二項対立がさらに激化するという悪循環に陥る。

 だから、論考の最後に、加藤は「自陣営を絶対化し、異論を宗教的な異端として排除する政治は、民主主義の根幹を蝕(むしば)む……言論の抑圧は必ず暴力へとエスカレートせざるをえない。左右いずれの陣営であれ、相手の人間性を否定し、対話を拒絶する先に待つのは、社会の分断と崩壊だけである」と、言論の自由と相手の発言する権利を求めることの重要性を説いている。加藤の言いたかったのはここに尽きるし、筆者も同感である。

 だが、保守的なキリスト教の世界観に対する、加藤の立ち位置がよく分からない。カークの活動について「糾弾」「標的」「攻撃」の文言を使っていたところから推察すると、福音派のように、信仰を持つ人間が政治的に熱心になることをネガティブに捉えているようにも思える。

 社会の非宗教化、世俗化は先進国共通の現象で、日本も例外ではない。ただ、日本は長い歴史を持ち伝統が残るため、家族の絆や地域共同体が辛うじて社会機能を支えている。それもいつまで続くのか、怪しくなっており、国の将来のカギは家族と地域の再生にあると言っていい。

 一方、歴史の浅い理念国家の米国は日本とは社会構造が違う。福音派のような信仰熱心な人たちの存在がなければ、リベラル思想や文化マルクス主義の影響で社会の世俗化・無神論化に歯止めがかからず、国家は立ち行かなくなるだろう。来年、建国250年を迎える中、福音派の動向は信教の自由とキリスト教の価値観を米国に取り戻すカギを握っているように思えてならない。

(敬称略)

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