横の縁活用し縦の縁深める

戦後80年、団塊世代が後期高齢者となった日本は多死社会を迎え、「終活」が課題になっている。私は12年前に終活支援団体一般社団法人「わライフネット」を立ち上げ、医師や弁護士、司法書士、葬祭ディレクターらのチームで、葬式や墓、遺産相続などの相談に応じ、公民館や介護施設で終活講座を行っている。
コロナ禍ではやりだした家族葬は今や葬式の主流となり、家族葬専用の葬祭場が造られたりしている。かつては親が亡くなれば葬式や相続についての暗黙の決まりがあったが、そうした経験値が失われ、葬式や墓、遺産相続を巡るトラブルが増えている。
浄土真宗の僧侶としては、「亡くなると阿弥陀如来のお迎えで極楽に行けます」と言わないといけないが、それで残された人たちが抱えている問題は解決しない。高齢者には介護保険制度の話も含め終活について啓発しないといけないと思うようになった。葬式でお経を上げるだけでは今の僧侶は務まらない。
終活セミナーの参加者は高齢者が多いが、大学で話すと学生も興味を持ってくれるので、年齢には関係ないのだろう。各自にエンディングノートを書いてもらうと、それぞれの課題が見えてくる。個別相談の話題は終末期医療や遺産相続、仏壇やお墓、遺品整理などで、手に負えないと専門家の応援を受ける。
古代、清らかさを旨とする神道を基盤に仏教を受容した日本は、汚れを扱う葬儀は仏教に任せるという神仏の棲(す)み分けを行った。インド仏教は輪廻(りんね)転生の信仰から遺体には無関心で、焼却灰は川に流し、墓はない。それがモンスーン風土の中国で儒教と習合し、遺骨を納める墓を造るようになった。そんな仏教が日本に入って来たのである。
白骨化した骸骨を廟(びょう)に納め、残りの骨を埋葬したのが中国の墓の始まりで、命日に孫などの頭に頭骸骨をかぶせ、死者の魂を寄り付かせる招魂再生の儀礼が行われた。これは古今東西の平均的な死生観で、日本の仏壇は中国の廟に由来する。
加地伸行大阪大学名誉教授によると、儒教の宗教性は「孝」に集約されており、「祖先祭祀(さいし)・親への敬愛・子孫の繁栄という三者を一つにした<生命の連続>という生命論としての孝、死の恐怖・不安からの解脱に至る宗教的孝である」(『儒教とは何か』中公新書)という。人の務めは祖先祭祀・先祖供養と親孝行、子孫の継続で、それが「孝」。北東アジアには『論語』よりも『孝経』が広まり、影響を与えた。確かに私たちの宗教心や道徳の基本に「孝」がある。
縁を大事にする仏教で言えば、「孝」は時代を超える縦の縁であり、同じ地平の横の縁とが交わる点に私が存在する。その意味で、終活は横の縁を活用しながら縦の縁を深め、生きる意味を再確認する作業とも言えよう。上手に生きてこそ、上手に死ねるのである。
日本人の宗教的欲求の核心は「死後の安心」で、先祖をはじめ「死者の供養」がそれをかなえてくれる。行政の窓口になったような江戸時代の仏教は「葬式仏教」と批判されてきたが、近年、日本が生んだ「グリーフケアの文化装置」として見直されている。
「メメント・モリ」(死を想(おも)え)は何よりも生を深めるためであり、浄土真宗の葬儀では、「朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」という蓮如が撰述(せんじゅつ)した「白骨の御文章」に感銘し、生き方を見直す人が多い。だからこそ、死の専門家としての僧侶の出番である。(談)





