トップオピニオンインタビュー戦後80年「達者でね!」港で涙の別れ 宮古島で見た日本兵と島民の絆 歴史認識巡る言論に危機感 戦争体験者・狩俣進氏に聞く

戦後80年「達者でね!」港で涙の別れ 宮古島で見た日本兵と島民の絆 歴史認識巡る言論に危機感 戦争体験者・狩俣進氏に聞く

 かりまた・すすむ 1937年、宮古島生まれ。小学2年生の年に終戦を迎える。高校卒業後、警察官として勤務し、98年に退職。

戦後80年の終戦の日を迎えるに当たり、沖縄では、旧日本軍と自衛隊を同一視して反発する一部市民団体による反自衛隊運動などが過熱している。こうした中、沖縄本島の南西約300㌔に位置する宮古島で戦争を実際に体験した狩俣進さん(88)が、本紙の取材に応じ、幼少期の記憶や、歴史継承の在り方について思いを語り、「偏った価値観にとらわれず、広い視野でありのままの歴史を継承していくことが大切だ」と話した。
(聞き手=沖縄支局・川瀬裕也、写真も)

沖縄県宜野湾市に暮らす狩俣さんは、戦時中を宮古島北部の狩俣地区で過ごした。1945年当時はまだ小学2年生だったが、村の部落長を務めていた叔父を通じて、戦況や日本軍の様子を子供ながらに見聞きしてきた。

40年代前半から、宮古島は南西諸島防衛の要として軍事拠点化が進んだ。狩俣地区周辺の沿岸部には旧日本軍の特攻艇基地が置かれ、島の中心部には飛行場も整備され、全国から集まった陸・海軍の日本兵たちが駐屯した。当時の宮古島の人口は約5万2千人前後とされるが、それに匹敵する約3万人規模の日本軍が同島に駐留していた。

当時、村人たちは日本軍の応援要請に応え、集落の若い男性は「防衛隊」に所属し、飛行場建設などを手伝った。狩俣さんの家の隣には小学校があったが、戦争が始まると日本軍の軍医や衛生兵が勤務する医療施設に転用され、村の女性たちは看護助手として働いたという。制服を着こなし任務に従事する日本兵は、「島の人々の憧れの的だった」。

一方、そんな勇ましい日本兵にも悲しい一面があった。夜になると、兵士たちが味噌(みそ)や芋を分けてもらえないかと民家を訪ね歩いたというのだ。「米はあったが、おかずはなかったのだろう。余裕のある家庭は食料を分けていた」と振り返る。狩俣さんは近年、「日本軍が住民から食料を無理やり奪った」などとする証言を取り扱った記事を目にしたが、「少なくとも私の知る限り、そのようなことはなかった」と違和感を口にした。

45年9月、終戦を迎えた日本兵が島を離れる日が訪れた。引き揚げ船が停泊する海辺には、島全土から大勢の若者、特に若い女性たちが見送りに集まった。「元気でね!達者でね!」。涙を流しながら手を振る彼女たちの姿を狩俣さんは忘れることができないという。

沖縄では歴史認識を巡り保守と革新が鋭く対立する。今年5月には、参院議員の西田昌司氏が「ひめゆりの塔」(糸満市)の展示の在り方に疑問を呈し、一部市民団体や有識者、地元紙などが強く批判した。前那覇市議の大山孝夫氏が「対馬丸記念館」(那覇市)の展示に異議を唱えた際も、「歴史修正主義者」のレッテルを貼られ大きなバッシングを受けた。こうした言論空間には、一種の危うさがあると狩俣さんは感じている。

今月6日、宮古島で訓練中の陸上自衛隊員と市民団体の代表が口論になる出来事があった。県内では、旧日本軍と自衛隊を結び付けて批判する団体が少なくない。今回の件は、こうした対立の構図を改めて浮き彫りにした。

県内では「軍隊は住民を守らない」という言葉が沖縄戦の教訓のように語られることが多い。しかし狩俣さんは「日本軍の負の側面だけを伝えるのではなく、戦争に至った経緯も踏まえて広い視野で、ありのままに伝えていくことが大切だ」と訴える。

戦後80年を迎え、当時を語れる世代は少なくなった。悲惨な戦争の歴史を繰り返さぬよう、どのように次世代に継承していくかが問われている。「戦争はしない方がいいに決まっている。しかし現実に起きてしまったとき、どう命を守るのかを考えなければならない」と話す狩俣さんの声は、戦時を生きた者の重みを持ってわれわれに問い掛けている。

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