トップ国内尾崎放哉の百回忌 終焉の小豆島の西光寺で法要

尾崎放哉の百回忌 終焉の小豆島の西光寺で法要

山頭火と並ぶ自由律の俳人 放浪の果てに死を迎える

西光寺本堂での法要

「咳をしても一人」などの自由律俳句で知られる尾崎放哉(ほうさい)の百回忌に当たる4月7日、終焉(しゅうえん)の地、香川県土庄町にある小豆島霊場五十八番札所の高野山真言宗西光寺(さいこうじ)で恒例の放哉忌が営まれた。

自由律俳句とは、五七五の定型や季語にとらわれず、感情を自由に表現し、文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多い俳句。旅を続けた同じ自由律の俳人・種田山頭火の「動」に対し、放哉は「静」の中に無常観と諧謔(かいぎゃく)性、洒脱(しゃだつ)味に裏打ちされた作風で多くのファンを得、法要には若い女性の姿も多数見られた。

西光寺での法要の後、参列者は墓地を訪れ、今年建てられた角塔婆(かくとうば)に巻かれた布を手に持ちながら供養した。参列者は線香を供えた後に、放哉が好きだったお酒を墓石に注いでいた。西光寺に戻った一行は昼食の後、放哉の朗読会を鑑賞、放哉ジュニア賞の授賞式なども行われた。

放哉の墓に酒を注ぐ参列者

放哉は明治18年、鳥取市の生まれで、本名は尾崎秀雄。父は地方裁判所の書記官で、14歳から俳句や短歌を作り始めた。一高で一学年上の荻原井泉水(せいせんすい)と出会い、自由律俳句運動に参加する。井泉水は放哉の作品こそ「本当の俳句」だと絶賛した。

井泉水は正岡子規の高弟である河東(かわひがし)碧梧桐(へきごとう)の新傾向運動に親しみ、機関誌『層雲』を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張し、俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いたことで知られる。自由律俳句は一時ブームになるが、同じ子規高弟の高濱虚子に批判され衰退したが、日本語の新しい表現形式として根強い愛好家がいる。

東大法学部を卒業した放哉は通信社に勤めるが、1カ月で退職し、鎌倉の禅寺に通う。26歳で東洋生命保険(現、朝日生命)に就職し、大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、郷里の遠縁の娘と結婚する。井泉水が創刊した句誌『層雲』に山頭火と共に掲載され、放哉は世に知られるようになった。放哉は最大の理解者である井泉水を生涯にわたって師と慕っている。

放哉の墓に酒を注ぐ参列者

優れた俳句を残しながら、酒癖の悪さから何度も職を失い、妻とも別れた放哉は、西田天香が京都・山科に開いた一燈園や神戸の須磨寺など各所を流浪し、終焉の地に選んだのが小豆島。「海が少し見える小さい窓一つもつ」と詠んだ放哉が井泉水に、「海の見える所で死にたい」と訴え、井泉水は遍路巡礼で小豆島を訪れた時に知り合った島内の句友に、海辺の庵を探してほしいと依頼。その紹介で放哉は大正14年8月に島へ渡り、西光寺の南郷庵(みなんごあん)に住み込んだのである。

庵主として時々訪れる遍路を迎えるだけの孤独な暮らしで、ここがついの住み家となった。この頃「人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る」と詠んでいる。孤高な放哉を、長くお遍路さんをもてなしてきた島人たちが世話したのである。庵で最後の8カ月を過ごした放哉は、近隣の人たちに看取(みと)られながら肺結核のため亡くなり、西光寺の墓地に葬られた。享年41。山頭火は2度、放哉の墓に参っている。

小豆島での句は「咳をしても一人」「とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた」「障子あけて置く海も暮れ切る」「足のうら洗へば白くなる」「入れものが無い両手で受ける」「墓のうらに廻る」「一つの湯呑を置いてむせてゐる」など。

平成6年、「放哉」南郷庵友の会と当時の土庄町長・塩本淳平の尽力により、終焉の地に南郷庵を復元し「小豆島尾崎放哉記念館」が開設され、命日の4月7日に「放哉忌」が営まれるようになった。

 (多田則明)

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