
名曲「夏の思い出」の舞台として有名な本州最大の高層湿原・尾瀬。歌詞に出てくるミズバショウの咲く美しい景色を見ようと、毎年、多くのハイカーが全国からやって来る。尾瀬国立公園の関東側の玄関口となっている群馬県片品村には、豊かな自然と調和するように、青い芝生が広がる洋風の墓地がたたずんでいる。
ここは世界平和統一家庭連合(家庭連合、旧統一教会)が所有・管理する「尾瀬霊園」。40年以上前に信者から寄付された土地を整備したもので、全国に8カ所ある教団墓地の中でも特別な存在だ。
と父親の福田実さん=5月4日、群馬県片品村(石井孝秀撮影).jpg)
ここで眠る信者の数は累計1400超。敷地内には遺族らが祈りを捧(ささ)げられるように、チャペルが設けられている。
「この霊園が私の生き方を大きく変えてくれた」
今月初旬に尾瀬霊園で取材に応じた2世信者の白石佳代さん(35)は、こう話した。この日は白石さんらが中心になって、2世信者遺族が交流するバーベキューイベントが開かれていた。教団内で霊園は信者同士をつなぐ重要なコミュニティーになっている。
白石さんの母・福田ゆき子さんは2009年に卵巣がんで亡くなり、尾瀬霊園の納骨堂で眠っている。母親が他界した当時、19歳だった白石さんは家庭連合の信仰を拒絶し、「反教団を掲げる人たちと連絡を取っていたし、脱会届も用意していた」という。
死生観が大きく変わったのは、母親の死がきっかけだった。母親は「子供を残して死ねない」と2年7カ月の闘病生活を続けた。しかし、がんは全身に転移し、病院からも「最期は自宅の方がいいだろう」と勧められて退院。その2週間後に息を引き取った。
白石さんは母親の最期の瞬間を目の当たりにしている。午前零時すぎ、限界を迎えた母親を父親の福田実さん(69)がベッドの上で抱き上げていた。白石さんが他の兄弟たちと見守る中、父親が「闘病生活お疲れさま。よく頑張ったね。もう十分だよ。もう行ってもいいよ」とささやくと、母親は一瞬うなづき、そのまま亡くなった。
その光景を白石さんは「感動した」と語る。「自分が死ぬ時は、愛する夫に抱きしめられながら死ねる、そんな夫婦になりたい」。神の存在や教義のことは全く分からなかったが、最期の瞬間を共に過ごした両親の姿を見て、素直にそう思った。
遺骨を尾瀬霊園に納めた後、月命日には必ず家族で墓参りに行った。車で片道約2時間の距離だったが、悲しみのどん底にいた白石さんにとって、亡くなった母親に会うための時間は長いと感じなかった。
「道中はワクワク感もある不思議な気持ちで、車の中でずっとお母さんの話をするその時間が家族にとってかけがえのないひとときだった」
霊園に着くと、信者である管理人に納骨堂の鍵を開けてもらい、家族全員が母親のお骨入れに触れた。時間は10~15分程度だったが、最後は必ず「また来るね」と声を掛けた。その後は管理人から茶菓子をもらい、家族で談笑しながらゆっくり時間を過ごすのが毎月の習慣となった。
「教会が大嫌いだった」という白石さんだが、月命日に墓参りをする中で信仰を持つようになった。「死んだ後、無になるとか転生するのではなく、一人の人間が永遠に死後の世界で存在するという捉え方が自分にはうれしかった」と振り返る。結婚して家族が増えた今も、月命日は家族が集まって食事会をしている。
信者の死生観踏みにじる政府
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家庭連合に対する文部科学省の解散命令請求が確定した場合、法人が所有する土地の扱いは定かではない。尾瀬霊園の存続が不透明な状況であるにもかかわらず、それでも信者からは埋葬・納骨希望が後を絶たない。
白石さんとともに霊園の理事を務める父親の実さんは、墓地までも閉鎖に追い込まれかねない家庭連合の現在の状況を「村八分ですらない」と憤る。「村八分とは火事や葬式だけは例外的に協力するという意味であり、それが日本の伝統でもあった。解散によって墓地にまで手を付けるのは伝統を破壊する行為ではないか」
政府や裁判所は教団解散後も「信教の自由は守られる」としているが、信者が集まる教会施設や遺族が心の拠り所とする墓地がなくなれば、宗教的なコミュニティーは維持できなくなる可能性が高い。
白石さんらが月命日に続けてていた墓参りも、霊園の管理人が信者であったからこそ納骨堂への頻繁な出入りにも理解があった。これが許されなくなることは母親との対話が禁じられることを意味し、白石さん家族にとってはとても耐えられないことだ。
白石さんは納骨堂の中で母親の遺影を見せながら言った。
「霊園を奪われることは、家やふるさとを取り上げられるようなもの。自分たちが生まれた意味もこれから生きる意味も分からなくなってしまう。政府の方々の死生観はどうなっているのか…」
(信教の自由取材班)