マグニチュード9・0、最大震度7を観測した東日本大震災から11日で14年を迎える。東京電力・福島第1原子力発電所の事故で全町避難指示が出された福島県双葉町では、今月4日、避難指示が解除されて丸5年が経過した。だが、現在も町の大半が帰還困難区域で立ち入りが禁止されている。現地の状況を取材した。(福島支局・長野康彦)
JR常磐線の双葉駅周辺を中心に特定復興再生拠点区域に設定された地域では、商業施設の建設が予定されるなど、環境整備が進んでいるが、町内で暮らす人は現在180人ほどで、震災前の7000人と比べ、その3%にも満たない。

津波で更地となり、見渡しの利く町内を海の方へ目を向ければ、工事の大型車両が時折見えるだけで、交通量はまばらだ。
更地の多い町内には新築の家もちらほら見られるが、家屋はほとんどが空き家の様子。倒壊しそうな家や、門が崩れたままのお寺、室内が散乱し廃墟(廃虚)となった消防団の建物と、その外壁に掛かる地震発生時刻を指したままの時計など、14年たつ今も生々しい震災当時の傷痕が残っている。
町内にある県の施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」に勤める鈴木史郎さん(62)は、隣接する大熊町の出身。現在は避難先の福島市に家を建て、そこから通勤している。

「14年、あっという間でした。できれば大熊町に戻りたいけど、福島で終わるのでしょう」と話す。大熊町の自宅は業者の順番待ちで、今もまだ解体もできない状態という。
「とにかく、原発事故はまだ終わっていない。東京とか大阪の方から来た人は、もう終わっているんじゃないのと、そんな感じで来られますが、そうじゃない。まだまだ戻れない人がいっぱいいる。そういう人もいることを忘れないでほしい」と訴える。
伝承館には米国、フランス、台湾など海外からの訪問客も多い。「案外、外国の方のほうが日本人よりも熱心です。半日かけたりしてすごく熱心に見ていかれます」と話した。
震災当時の記憶を後世に伝えるのが語り部の仕事だ。伝承館では毎日午前2回、午後2回、語り部たちが交代で講話を行っている。相馬市出身の語り部の男性(69)は、「原発事故がなければ地震と津波の後、必死の捜索で助かった命もあったはず。一晩だけは捜索できたが、翌朝はすべての捜索を打ち切って全員避難となってしまった。そういう憤りを持ったご遺族もいらっしゃる」と原発事故へのやる方ない思いを語る。

津波で「自分一人だったら逃げられたのに、誰かを救出するために亡くなった方が大勢いらっしゃる。正確なデータはないが、おそらく2万2000人の犠牲者のうち数千人以上がそういう事例でお亡くなりになったと思う」と話す。「毎年3月が来ると、誰かを助けようとしたがために亡くなった人がすごく気になってしまう。自分だけ逃げれば助かった人が大勢いらっしゃったろうに」と述べ、「どちらが正しいとかはもう全く判断できないですが」と付け加えた。
復興はいまだ道半ば。町は2030年ごろまでに人口2000人を目標に掲げる。環境整備が少しずつ進む中、14年がたつ今も、震災当時の爪痕は残り続けている。