
豪州先住民とも生活 無宿旅行で知った自然人の強さ
――カメラマンになろうと思ったのは。
実家が写真屋だった。学校のアルバムを作ったりしていた。そういう仕事をしたくなかった。だから東京に出てきた。
――東京の何が押し出したのか。
高校の頃はベトナム戦争の時代だった。全学連などが1968年、東京から大挙して故郷の長崎県佐世保にやって来て米空母エンタープライズ寄港反対デモをやった。東京の学生はこんなに元気で多いのか、正直驚いた。そのエネルギーに引き寄せられた。
それで高校卒業後、上京して東京写真専門学院に入学した。専攻したのは写真科だ。
写真科には女優・松原智恵子さんの夫の黒木純一郎氏が教えに来ていた。黒木氏はテレビ東京の仕事に関わっていて、「弟子が行くから」と言って俺を紹介してくれた。
テレビ東京に行きだしたら現場の方が面白いから、学校は辞めた。ドキュメント番組の取材スタッフとして働いた。ただ、初めは新鮮だったが次第に疲れてきた。肉体的にきついというよりは、ハートがついて行かなくなった。結局、俺は共同作業には向かないと断念して辞めた。それで一人でオーストラリアまで旅に出た。
英語も分からないし当初、安ホテルに泊まってブラブラしていたが、豪州をぐるっとヒッチハイクで3カ月かけて1周した。
日本から浮世絵のハンカチを持って行ったから、乗せてもらった人にあげた。余った物を路上に並べて売ったりして旅費を捻出した。そういうふうに小銭を調達しては次のヒッチハイクに向かった。人生初の海外旅行だった豪州は、俺の旅の原点だ。
――基本的にたくましい。
金ができた時には豪州縦断の電車に乗ったりして、結局、豪州は2周した。
目に入ったのは、先住民である黒いアボリジニだった。俺の荷物を持ってくれたりした。お礼に俺がおごるビールが飲みたいからだ。そうすると毎日、やって来ては荷物を持つという。
――かわいいものだ。
そうだ。それでアボリジニの村に入って、一緒に生活してみようと思った。
結局、1カ月以上はいた。
――アボリジニの家に泊まったのか。
無宿者の彼らは家などない。崖の下で寝るとか、滝のそばで寝たり、一晩中火を燃やして寝るとかといった放浪生活だ。全くの原住民スタイルだった。
――仕事は。
ない。その辺で鳥のオウムに石を投げ付けたりブーメランで落として、さばいて食ったりしていた。すごいよね、そうした狩猟生活で食いつないでいた。
一緒に生活させてもらいながら、北上したりした。
――各地にいるのか。
アボリジニは集団で存在する。北に行ったり南に行ったりする。
食べ物はそんなものばかりだから、日本人だと下痢してしまう。だから下世話な話だが2週間くらい、脚を大股に開いて垂れ流しのまま歩いていた。
だがそうしているうちに、胃腸が丈夫になってくるんだね。すごいよね、人間っていうのは。
――アボリジニの方のすごみは。
自然人というのは、実に強いというのが実感だった。
学生運動とかと比較すると、格が違う。文明の恩恵には浴していないが、鳥捕ったりトカゲ食ったりして命をつないでいる。それでも生活は成り立っていた。基本的に俺は人そのものが好きなんだ。
――子供たちの学校は。
アボリジニの子供たちは、豪州政府の同化政策で一部には学校に通う子供たちもいたが、当時は学校というのは多くが大自然やアボリジニの共同体が学校だった。
大阪万博が始まる前、「文明の生態史観」を書いたフィールドワーク重視の梅棹(うめさお)忠夫氏の弟子が世界にばらまかれていた。俺がアボリジニの村で生活している時、そうした弟子の一人に「失礼ですけど日本人ですか」と聞かれて、「日本人だよ」と答えると、「えー、こんな生活しているのですか」とえらく驚いていた。
彼が名刺を差し出し「日本に帰ったら連絡ください」と言うから、帰って連絡すると、「東京都立大学にこういう教授がいますから、そこで勉強してください」と聴講させられた。
アボリジニの民俗学や世界の民俗学を、体系だって勉強できたのは良かった。授業料はなしで、お中元とお歳暮だけで1年通って受講した。
――井上さんは単なる写真家ではなく、文章も書いて、本も10冊以上出している。
写真はキャプションを書かないといけない。それを書き出すと、文章の量が増えてくる。俺は人間に興味があったから、自分で撮って書いてというのが好きだった。人を撮るときには、朝の起床時から深夜の寝る時まで付き合っているのだから、しぐさだとかどういう飯を食ってるかとか書くネタに困ることはなかった。
――自費出版もあるのか。
一度もない。すべて出版社からの依頼だ。
「フォーカス」やら「ナンバー」だとか、いろいろな雑誌媒体を使って写真や記事を掲載していたので、それを見た出版社が「まとめてみないか」と言って本の企画を持ち込んでくれた。(聞き手=池永達夫)
【メモ】井上さんは自民党総裁のポスター用ポートレートを、中曽根康弘氏から小泉純一郎氏までずっと撮り続けてきた。「なぜ、そんなに長く撮ることができたのか」と聞くと、「井上が撮ると、選挙に勝つ」といううわさが流れていたという。「そのうわさは自身が流した?」と尋ねると、悪びれることもなく「うん」と答えた。計算高くはあるが少年のように素直な人だと思った。
小泉総裁時代の写真撮りでは、太陽の光線具合から「こっちに動いてください」とお願いすると「お前が動け」と言われた。それに対し井上さんは「太陽は一つしかないんだから」と総裁にねじ込んでいる。媚(こ)びることなく、いい写真を撮るために妥協しない直球を投げたのだ。写真屋だった家を飛び出して写真家になろうとした井上さんは、その本望を遂げている。