
世界平和統一家庭連合(家庭連合、旧統一教会)から脱会させるために拉致監禁された被害者は、実に4300人以上に上る。マンションの一室などに長期間拘束して自由を奪い、強制棄教させる手口は、「現代の座敷牢(ろう)」と呼んでも過言ではない。この中で最も壮絶な体験をした被害者の一人が、12年5カ月間にわたって監禁された後藤徹氏(61)だ。後藤氏は解放から17年目となる今月10日に自伝「死闘 監禁4536日からの生還」(創藝社)を出版した。「戦後最大の人権侵害」とも呼ばれる拉致監禁・強制棄教問題を社会に訴えるため、後藤氏は声を上げ続けている。 (信教の自由取材班)
後藤氏は拉致監禁の解放日となる10日、東京取杉並区で開かれた自伝の出版記念講演を終えると、約20人の支援者と共に渋谷区松濤の教会本部を約10キロメートルに及ぶ道のりを目指して歩いた。
後藤氏は監禁により十分な食事を与えられず、もともと65㌔だった体重は50㌔にまで激減した。17年前、無一文でマンションから放り出された挙げ句、弱り切った体でこの距離を歩いた。それを追体験してもらうのが目的だ。
後藤氏と支援者はまず、監禁場所だったマンションがある荻窪に向かった。マンションに近づくと、後藤氏は足を止め、8階の角の部屋を指さし「10年以上閉じ込められていた部屋」だと説明。「この場所で拉致監禁の被害に遭った信徒は多い」と話した。閑静な住宅街にあるそのマンションの8階は地上から見えづらく、到底飛び降りることはできない。ここで後藤氏が言う「戦後最大の人権侵害」が起きていたのだ。

最初に自由を奪われてから12年5カ月の間、玄関ドアや窓の施錠など、マンションの一室から脱出不能の状態に置かれた。日ごとに体力・筋力ともに衰えていく後藤氏に脱出は不可能だった。後藤氏にとって命よりも大切にしていた信仰の自由を奪われ、人格を否定された。それでも、最後まで信仰を捨てず、強制棄教を目的とした精神的・肉体的な“拷問”を耐え抜き、2008年2月10日、音(ね)を上げた家族に放り出されたのだ。
マンションから2~3分歩いた所に交番がある。当時、後藤氏は、警察が動けば証拠をすぐに押さえられるかもしれないと期待し、交番を目指した。しかし、「被害を懸命に訴えても最後まで相手にされなかった」。そこで、遠い道のりであることを承知の上で、渋谷区松濤の教会本部を目指すことを決心したという。
一行は松濤方面に向かって青梅街道沿いを東に進んだ。大通りであるため人通りが多く、牛丼店やラーメン店、コンビニなどの店が次々と視界に入る。一銭も持たない後藤氏は当時、こうした店に立ち寄ることもできず、空腹を満たすことは叶(かな)わなかった。
道行く人を頼ることもできず、当時の心境はいかに心細かっただろうかと推察できる。それでも後藤氏は「とにかく本部に行くことに必死だった」と振り返った。
「歩道橋が魔物に見えた」。目的地まで半分を過ぎ、小田急線の代々木八幡駅を通り過ぎた頃、後藤氏は歩道橋の前で立ち止まった。横断歩道はないため、歩道橋を渡るしかない。当時、弱り切った体は限界に近かった。まともに歩ける状態ではない中、やっとの思いで上り下りしたという。
ゴール間近の松濤2丁目の交差点。「いよいよここがクライマックス」と力を込めた後藤氏の顔に笑みがこぼれた。当時、膝の痛みが限界に達し、しゃがみ込んでいたところ、後藤氏が声を掛けた女性が偶然にも家庭連合の信者だった。「まさに奇跡だった」と声を弾ませる。
その時、女性から渡された500円玉2枚でタクシーに乗り込んだ。目的地の本部教会に到着したが、降りたのは道路の反対側。入り口までの「わずか5㍍」があまりにも遠く感じたという。後藤氏は玄関で守衛を通じて本部職員と連絡を取り、無事に保護された。栄養失調状態で、かつ、疲労の限界に達していた後藤氏は、守衛からカツカレーとあんパンと肉まんを受け取った。
「涙が出るほどうれしかった」
目を輝かせて語った一言が全てを物語っているようだった。