第18代天台座主・慈恵大師良源 奈良国立博物館で
日本最大の肖像彫刻
=1月14日、奈良国立博物館なら仏像館(画像提供:深大寺).jpg)
延暦寺中興の祖、おみくじの創始者
3年かけ修理完成を記念
奈良国立博物館にあるなら仏像館で3月16日まで、東京都調布市の天台宗別格本山深大(じんだいじ)寺の元三大師(がんざんだいし)堂に安置されている日本最大の肖像彫刻、元三大師坐像が特別公開されている。
像高196・8㌢㍍の元三大師こと第18代天台座主慈恵大師(じえだいし)良源(りょうげん)の坐像で、奈良国立博物館文化財保存修理所で3年かけての修理完成を記念し、関西では初めての特別公開。深大寺は奈良時代の天平5(733)年開創と伝わる古刹(こさつ)で、飛鳥時代後期(白鳳期、7世紀後半)の金銅仏、国宝・釈迦如来倚像(しゃかにょらいいぞう)の所蔵でも知られている。
良源(912~985年)は平安時代中期の天台座主で、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の中興の祖とされる高僧。命日が元月(1月)3日だったことから「元三大師」と称され、神格化された。没後、良源は次第に比叡山の護法神のような存在になり、やがては良源を祀(まつ)ると外敵調伏に効果があり、飢饉(ききん)や疫病の根絶に力を発するという「元三大師信仰」が広まった。弟子に、極楽往生をリアルに描いて浄土教が広まる大きな要因となる『往生要集』を著した源信がいる。
こうした信仰により、平安時代末期から鎌倉時代にかけて画像や彫像が数多く作られ、比叡山三塔十六谷のどこでも良源の画像か彫像が見られるようになり、民間では「厄除(よ)け大師」など独特の信仰を集めるようになった。比叡山横川にあった良源の住房・四季講堂は良源像を祀ることから「元三大師堂」とも呼ばれている。
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良源は全国の社寺で授けられる「おみくじ」の創始者で、元三大師堂がその発祥地とされている。元三大師は頭に2本の角を生やし、両目を大きく見開き、胸のあばらが浮き立つ異様な姿で描かれることもあり、俗に角大師(つのだいし)と呼ばれ、強大な法力を持つ良源が鬼の姿で人々を守る「角大師の護符」は各地の厄除け寺で授けられている。
深大寺の元三大師坐像は寄木造で、頭と体幹部は複数の材が寄せられ、乾燥による干割(ひわ)れを防ぐために内部がくり抜かれ、首の周りに鑿(のみ)を入れて頭と体を割り離す「割首(わりくび)」が施されている。頭と体が別の材ではないかとの指摘もあったが、今回の修理で同じ材であることが確認された。
眉は太く、目は、大師の眼力の強さを表すため当初は水晶を使った玉眼(ぎょくがん)であったが、江戸時代の修理で木製の目に代えられた。鼻筋も太く、頬が張って圧倒的な迫力があり、数ある元三大師像の中でも、リアルさが群を抜いているとされる。皮膚が黒ずんでいるのは時代の経過からで、表面の彩色は後世の補修である。
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深大寺の元三大師像が制作された経緯や作者は明らかでないが、その造形と厄除けの必要性から蒙古襲来(元寇)以降、全国各地で行われた異国退散祈願のため、鎌倉幕府などの有力者の後押しを受け、関東の重要な霊場であった同寺に祀られた可能性が指摘されている。
当時、深大寺は源氏の尊崇を受けて天台密教関東第一の道場として興隆していた。源頼朝は異母弟の範頼(のりより)を謀反の疑いで滅ぼしたが、比企尼(ひきのあま)の嘆願で助命された範頼の子範円(はんえん)は僧になり、深大寺別当も務めた。深大寺と鎌倉は地理的にも心理的にも近かったのである。
深大寺では今年4月26日から6月2日まで、令和の大修理完成を記念し、臨時の「元三大師大開帳」が行われる。元三大師像の御開帳は50年ごとの遠忌法要に併せて行われ、昭和59(1984)年は1000年遠忌(はんえん)で、本開帳の半分の25年目に当たる平成21(2009)年には「中開帳」が行われ、1週間で約10万人が参拝した。
(多田則明)