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兵庫・神戸六甲山山麓の諏訪神社

祭神は建御名方大神と比売神

源義経が武運を祈った言い伝え

諏訪神社

明治期に華僑に崇拝される

兵庫県の神戸市街を望む六甲山系山麓の諏訪山に鎮座する諏訪神社(安部初男宮司)は、仁徳天皇の皇后・八田皇女(やたのひめみこ)の離宮鎮護神として鎮斎(ちんさい)されたという。祭神は建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)と比売(ひめ)神(がみ)で、1182年頃の治承・寿永の乱(源平合戦)の折、源義経が武運を祈ったとの言い伝えがある。興味深いのは、明治に長崎から移住してきた華僑の人たちに崇拝されるようになったことである。

安部宮司は、「中国人が親しみを感じたのは、長崎の諏訪神社と同じように山の上にあり、長い石段を登った所から海が見えるからでしょう。海の向こうにある祖国の中国に思いをはせながらお参りしていたのではないか。今は3世、4世の人たちになっていますが、多くの中国の方々が赤色の名前を記した提灯(ちょうちん)を社殿に掲げています」と語る。有名な「長崎くんち」は長崎の鎮西(ちんぜい)大社・諏訪神社の秋季大祭で、華僑の龍踊(じゃおどり)が人気の一つ。

拝殿に掲げられた提灯には赤色で中国人の名や社名が記され、日本人の提灯の字は黒色だった。神社には絵馬が奉納されるのが普通だが、同社は献額がその代わりで、「有求皆應」(求めれば必ずかなえられる)「惠我華僑」(華僑をお守りください)など中国語の額が並んでいた。さらに拝殿には、中国の人たちのために、膝をついてお参りする跪拝(きはい)台が用意されている。

六甲山中腹から眺めた神戸港

両親が台湾から戦前に神戸に移住し、今の中央区で生まれた直木賞作家の陳舜臣は『神戸ものがたり』(神戸新聞総合出版センター)で諏訪山神社(諏訪神社の別称)について次のように書いている。

「境内に煉瓦づくりの焼却炉のようなものがみえる。ゴミ焼場とまちがえてはいけない。『紙銭(しせん)』を焼くための炉なのだ。

紙銭というのは、むかし中国で副葬品にほんとうの金銭を使ったのを、紙にかえたものである。約十㌢四方の紙で、中央に申し訳ばかりの金箔(きんぱく)や銀箔が刷りこんであり、祖先をまつるときなどにそれを焼く。冥土でもゼニが要るとみえて、そうして死者に金銭を贈るわけだ。…

中国人が奉納した献額

神殿のまえに、すこし傾斜した奇妙な台が置いてある。腰掛けではない。跪拝するとき、両膝をそこにつくための台なのだ。中国では、神にたいしては『一跪三叩頭(こうとう)』の礼をおこなう。1回ひざまずき、3回頭をさげる。死者には『一跪四叩頭』、皇帝や天地には『三跪九叩頭』ときまっているが、いずれにしても、ひざまずかねばならない。…」

また、華僑が諏訪山神社を拝むのはコロニアル・スタイルだと言う。

「神戸は明治以後、国内の各地、そして国外の各地から人間が集まった。彼らは人情として、やはり出身地の風習や生活方式に従いたかったが、いろんな関係で、ふるさとそっくりというわけにはいかない。妥協によって、一種のコロニアル・スタイルをいろんな面で生んだであろう。…」

安部宮司は「山に登ってくるので健康にいいのも、諏訪神社が愛される一つです」と付け加えたが、健康のため諏訪神社にお参りした外国人は他にもいる。ポルトガルの海軍士官として1889年に初来日し、99年に日本にポルトガル領事館が開設されると初の在神戸副領事として赴任し、後に総領事になったヴェンセスラウ・デ・モラエスも、諏訪山一帯の散歩が朝の日課だった(新田次郎・藤原正彦著『孤愁』文春文庫)。

モラエスも諏訪山から海を眺め、異国にいるポルトガル人特有の「孤愁」(サウダーデ)をかみしめながら、遠い祖国に思いをはせたのであろう。

(多田則明)

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