Home国内【連載】脅かされる信教の自由㊵ 第6部 宗教者の声  国と個人をつなぐ宗教の自由

【連載】脅かされる信教の自由㊵ 第6部 宗教者の声  国と個人をつなぐ宗教の自由

聴行庵住職 東和空師

まず、私は一人の仏教徒として、ある意味で報道が宗教の個々人の信仰を軽視して、機を見てこれまでの団体の問題を一足飛びに飛び越えて広げていったことに真偽の疑問を感じながら、今まではその事実関係も知らずして無責任に意見しないように意識していました。その上で、この一連の政権手続きが、宗教法人に対する政治的意図として見え隠れするのは、何か「自由」という崇高な神仏の人間社会への計らいにこれが抗(あらが)っていないかと一抹の畏(おそ)ろしさを感じました。

ひがし・わこう 1964年、山口県下関市生まれ。聴行庵住職

例えば、時の政権が臨時国会や衆参補選を控えた時期に請求したタイミングや、教団への毅然(きぜん)とした姿勢を示す狙いがなかったかなどの政治的意図を感じました。また、解散命令の可否は刑事事件の存在が基準の一つと考える方法がありましたが、民法の直接適用によって、その宗教団体の違法性を際立たせることで解散請求につなげたいと考える理論もあるように見えます。

そして、政治による宗教の軽視とも取られかねないような宗教法人審議会の非公開や議事録の非開示についても、日本の宗教教師約65万人を前にして無防備な性善説で成り立っている宗教法人としての適格性を問われる判断の経緯や理由を明確にしておかなければ、後々に却(かえ)って宗教の印象的不信感は拭えなくなるでしょう。そのために、この一連の審議や国民の関心において、「信教の自由」という大原則を民主的な統制を十分に利かせて透明性をもって行われることを願ってやみません。

   *   *

さて、仏教の教えで「自由」とは、自(おの)ずからに由(よ)るということです。外の社会環境と関係を持ちながら、それに振り回されない生き方、「自己の信念」が確立した状態を言います。 本来、自由であるのですが、自分や他人、周りの環境等に、とらわれ、片寄り、こだわってしまい、苦しんでしまいます。そういった中、今回の一連の現代社会の宗教に対する国の対応は、私たちの幸福を追求する自由に大きなメッセージを残しました。

国と個人を円滑につなぐ役割として存在してきた宗教に人間の精神活動の自由があったのか、国は思想・良心の自由、信教の自由を侮っていなかったのか、報道が表現の自由、学問の自由に権力を求めていなかったのか、人間の理想や幸福は、自由な個人が自らの可能性を社会の中で最大化できることと知りながら理想と現実のこのとてつもない落差が、日本人の幸福度を大きく引き下げていることを僧職者の一人として反省しております。

もし、この閉塞感や気を宗教の働き掛けで解放できるとするならば、収入や物質的豊かさ以外で幸福度を上げることですが、社会全体の自由度 、寛容さ、腐敗のなさなどが大きな要因と考えます。とりわけ近代社会の個人化と個人の宗教化が進展し変化し続けていることを観察すると、思いやりのある自由と個人の幸福が直結してきていることに気が付きます。

個人の自由には他人に承認されている自由であるか、双方が傷つかない自由であるか、国益につながる自由であるかを観(み)ながら、また社会や組織はその個人意識の自由が社会的自由にパラレルワールドにつながっていることを生き物の縁起全体に気付いていくことが重要であると確信します。

さまざまな利害が増大する無常な活動の混沌(こんとん)性(エントロピー)の生態を神仏が宣(のた)ぶる真の自由と秩序を理解するために、私たちは単に多数決で勝ち取るだけでなく、双方が対等な立場で本質的な秩序と国益とに尊厳をもって、ゆっくりと和解して治まることを祈っております。至心合掌。(寄稿)

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