饗応や火消役務める
赤穂藩主が庭で切腹も

よく時代劇で江戸屋敷や火消装束を見かけるが、その一端を示す展示が岩手県・厳美渓(げんびけい)近くの一関市博物館で開かれている。
江戸時代、仙台藩62万石とその支藩である一関藩3万石の江戸屋敷が新橋、高輪一帯に門を構えていた。仙台藩の屋敷跡は汐留駅建設の際に大規模な発掘が行われ、近くの愛宕下にあった一関藩の上屋敷も数度にわたり発掘調査されている。
同博物館の特別展「江戸の大名屋敷―一関藩・仙台藩―」では、発掘品や歌川広重の絵図(仙台藩上屋敷の表門周辺)、表門のひな型、歴史資料などを紹介している。
大名は幕府から参勤交代を命じられ、江戸に複数の屋敷を持っていた。仙台藩の伊達政宗は慶長6(1601)年、京都の伏見城内で徳川家康から、江戸に4カ所の屋敷を賜っている。
江戸屋敷には、藩主、家老、用人、足軽に至るまでの家臣や奥女中、それらの家族や奉公人など多くの人が生活していた。同展の発掘品を見ると、中国産の高価な青磁や大皿がある一方で、箸や下駄(げた)、化粧道具やおもちゃが多くあり多彩な暮らしが想像できる。
有名な、一関藩江戸屋敷の事件にも触れている。初代藩主は元禄14(1701)年、江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の身柄預かりを命じられ、上屋敷が切腹の場となった。
その少し前、幕府は天和2(1682)年に、仙台藩など23の大藩に火消役の設置を命じ近隣の消火に当たらせた。一関藩でも華麗な火消装束に身を包んだ火消行列が絵巻物で描かれている。
一関藩は小藩でありながら奥詰・奏者番(そうしゃばん)という要職に就き大名が将軍に謁見(えっけん)する際の取次や儀礼を交代で担っている。しかし江戸屋敷は火災の多さ(5度)が目立っており、屋敷の再建に加え飢餓や参勤交代、幕府から命じられた役目を遂げるために藩経済は逼迫(ひっぱく)ししていった。
港区高輪2丁目に国史跡「高輪大木戸跡」がある。江戸の南の玄関口に当たり石垣の間に柵と門を設けて出入りを制限した。現在は、幅5・4㍍、高さ6・3㍍の石垣のみが残っている。(同展は24日まで)
(伊藤志郎)





