小6の時、寺で見た地獄のスライド
死について考え宗教心芽生える
私が76歳になって人生を振り返ると、思春期から漠然と心を占めていたのは罪と救いの問題。念仏ばあさんに育てられた私は、寺で地獄のスライドを見せられ、小学6年生で、死んだらどうなるのか深刻に考えた。宗教心の芽生えである。
京都大学1年の春、寮祭で知り合った奈良の女性と付き合うようになり、好きな寺を一緒に歩いた。たわいもない会話は楽しかったが、心を離れなかったのは倉田百三の『出家とその弟子』。学問と体を鍛えれば夢はかなうという希望は、人は内面から腐ってしまうという現実に消えていた。
当時、大学紛争で、私の寮では寮費が値上げされたので不払い闘争。活動家の非常識にあきれた。当時、先輩がよく口にしたのは「消耗(しょうもう)した」。活動に疲れ、安らぎを求めて女性と同居した話にもあきれ、マルクス主義では人間の問題は解決できないと思った。
彼女への思いが深まるにつれ、自問したのは、「おまえは彼女の人生に責任をとれるのか」。楽しさと重さを抱えながら、延暦寺根本中堂で重低音の読経を聞き、夜道を急いで坂本に降り、電車で京都に向かいながら、ふと思ったのは「妹と思えばいい」。
1年の後期試験が終わり、思い立ってキリスト教の教会を訪ね聖書の話を聞いた。神は喜びのために人を創造したとの話には安心したが、エバと天使の性関係が原罪との説明には、はて? 性欲と罪の関係を単純化し過ぎているのではないのかと。
罪と救いに悩み葛藤
親鸞の妻帯に聖徳太子の啓示
日本仏教史において親鸞が画期的だったのは、妻帯を公表したこと。当時、僧の妻帯は厳禁だったが、「隠すは上人、せぬは仏」と言われるように、高僧も妻をかこっていた。政治権力を失い、法然を戒師に出家した九条兼実(くじょうかねざね)は、在家でも救われる証を、不犯(ふぼん)の弟子に娘の玉日を娶(めと)らせることで得ようとし、法然は親鸞にそれを命じた。親鸞の2人目の妻・恵信尼(えしんに)は、体の弱い玉日が越後に流される親鸞の世話につかわしたという。
親鸞は生涯に2度、聖徳太子に夢で導かれている。最初は太子の墓所がある磯長(しなが)の叡福寺で、2度目は京都の六角堂で。親鸞が「和国の教主」と慕う太子は在家で、太子が著したとされる『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』の勝鬘経(しょうまんぎょう)も在家の女性の教え。とりわけ、仏教では難しいとされた女性の救いが説かれている。性欲に悩む親鸞に、六角堂での夢に現れた太子は、自身が観音になって犯されようと告げた。そして、親鸞は法然のもとへ赴くのである。
アニミズム的な神道をベースに受容された仏教は、奈良仏教の教学の時代を経て、最澄と空海の時代になり、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」の本覚(ほんがく)思想に到達した。その理想は釈迦(しゃか)にもあったが、日本的風土で完成したのである。すべてが救われるとの法然の教えも、その思想に立脚している。
法然に始まり、親鸞が広めたのが「二種回向」の教え。死後、人は阿弥陀如来により浄土で救われ、救われた身で現世に戻り衆生(しゅじょう)を救うという。前者が往相(おうそう)、後者が還相(げんそう)の回向である。大乗仏教の自利利他の教えは、これで完結する。分かりやすく言うと、既に仏に救われた身なので、エゴを乗り越え、どんな人にも尽くせるということ。その心理はカルヴァンの「二重予定説」に似ている。
で、肝心の「救い」とは何か。ヒントになるのは、仏性があるのになぜ修行しないといけないのかと思い宋に渡った道元が、仏性あるから修行できると悟ったこと。つまり、日常的な利他行こそが救いで、政治学者の中島岳志・東工大教授風に言えば「思いがけず利他」、心より先に体が動く利他行となる。
これは、仏教以前のインドの思想、ウパニシャッド哲学が求めた「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の世界に通じる。私と宇宙が一つになる境地で、阿弥陀如来の浄土信仰は、そのための易行(いぎょう)の一つ。祖母の年になって、やっと分かりかけてきた。
(文・高嶋 久)