「無藝荘」は映画人のサロンに
「晩春」「東京物語」など家族をテーマにした小津安二郎の映画の脚本は、野田高梧(のだこうご)ないし野田と小津の合作による。昭和29年、小津は長野県蓼科(たてしな)高原にある野田の山荘「雲呼荘(うんこそう)」を訪れ、蓼科の自然、人情がすっかり気に入る。小津は脚本執筆の場をここに移し、山荘に“合宿”して、遺作「秋刀魚の味」までの晩年の6作品の脚本を書き上げた。
二人は昼間執筆をし、それに疲れると近くの疎林を散策した。そして夜は小津お気に入りの地酒「ダイヤ菊」で晩酌を楽しんだ。二人とも酒豪で、シナリオが1本出来上がるまでに一升瓶100本が空になったという逸話が残っている。
しかし、「東京物語」などで、描きたいテーマを描いてしまった二人のシナリオ作りは難航する。蓼科での第一作「東京暮色」(昭和32年)では、かなりの意見の対立、不協和音もあったようだ。小津には珍しいシリアスで暗い作品となり、世評も高くなかった。
人生や家族を明るく温かく描く松竹のいわゆる「大船調」を作って来た野田と、成瀬巳喜男(なるせみきお)の「浮雲」(昭和30年)などに刺激され新境地を開きたいと思っていた小津にはかなりのズレがあったようだ。
しかし、この“失敗”の後、小津は野田とズレを解消し、「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」など名作の脚本を共同して書き上げるのである。
山荘近くには、小津組の笠智衆(りゅうちしゅう)、佐田啓二らも別荘を構えた。シナリオ執筆にこもった「雲呼荘」は既にないが、小津が主に接待場所とした山荘「無藝荘」がプール平に移築されている。茅葺(かやぶき)の農家で囲炉裏(いろり)が当時のまま残っている。小津がこの囲炉裏を囲んで談笑する光景が浮かんでくる。
「無藝荘」の敷地内には、「小津安二郎野田高梧有縁地」の石碑が立っている。映画監督の井上和男らが発起人となって昭和48年に建立され題字は里見弴(さとみとん)の筆になる。
台座の裏側に、300人以上の基金者の名前が刻まれている。筆頭に記されているのは、「会田昌江」。小津の代表作、「東京物語」でのヒロイン役を務め、小津との恋愛関係も噂(うわさ)された原節子の本名である。あいうえお順に置かれただけだが、偶然とはいえ、小津と野田の碑にふさわしいものとなった。
(特別編集委員・藤橋進)