世界平和統一家庭連合(家庭連合、旧統一教会)の2世信者や元2世信者がメディアで取り上げられるようになって、「宗教2世」と言う言葉が盛んに使われるようになった。自分の意思ではなく信者になったり、親が信仰をしていることで不利益を被る否定的なケースで用いられることが多い。
しかし宗教は一般的に親から子へと受け継がれることが多い。家庭教育は人間形成の基礎であり、その根底には大なり小なり宗教的価値観がある。親が熱心な信仰を持つことが、子供たちの虐待に繋(つな)がるとする短絡的な見方は、世界の常識からも懸け離れている。
物心つく前から親に教育され信者となった場合でも、成長してから、自分でその信仰を捉え直し、自分のものとして続けるか棄教するか主体的な選択をするケースがほとんどだ。そういう葛藤が人間を成長させるのだ。
カトリック作家、遠藤周作はそのような葛藤を経験し、それを文学的に深めることによって、世界的にも高く評価される文学世界を築き上げた。
遠藤は両親の離婚によって、昭和8(1933)年、母郁子に連れられ中国旧満州の大連から日本に引き揚げ、兵庫県西宮市夙川(しゅくがわ)のカトリック教会近くに住むようになる。伯母の勧めで母がカトリックに入信し、遠藤も教会に通うようになり10歳で受洗する。
これについて遠藤は「正確に語るならば『受けた』というより『受けさせられた』と言ったほうがいい。なぜならそれは私のやむにやまれぬ意志から出た行為ではなかった」と語っている(「合わない洋服」)。
遠藤をカトリックに入信させた母について、妻の遠藤順子は著書『夫・遠藤周作を語る』の中で、その宗教教育はなかなか厳しいものだったと書いている。
「この母がおりませんでしたら、おそらく作家、遠藤周作は存在しなかったであろうと思うような人であったようです。たいへん信仰の深い人で、戦争中も毎日御ミサに行って、憲兵にあとをつけられたり……主人も毎日曜日御ミサに行かないと、ごはんが出なかったそうです」
また「悪戯をしても、成績が悪くても、何も怒られなかったけれど、『それはホーリィでない』って言われるのが、とても子供心にこたえたそうなのです」とも述べている。
遠藤は自分の意志で選んだのではないキリスト教を「合わない洋服」と感じ、何度も脱ぎ棄(す)てようかと悩んだ。それでも結局それを脱ぎ棄てることはできなかった。「私には愛する者が私のためにくれた服を自分に確信と自信がもてる前にぬぎすてることはとてもできなかった」のである。
しかし、このような内的な葛藤は遠藤文学の主題となり、それを基に『沈黙』などの世界的にも評価の高い作品が生まれることになる。
「私の文学」という文章の中で遠藤は述べている。「小説の場合も私にはほとんどこの一つの主題が縦糸となっている。(中略)母が与えてくれたにもかかわらず背丈にあわぬものとの闘いを語りたかったからである」。
遠藤はある時から「合わない洋服」をもう脱ごうとは思うまいと決心する。そして「この洋服を自分に合わせる和服にしようと思った」と言う。
この決意の下、遠藤は日本人とキリスト教というテーマに取り組む。それが、厳格な父のイメージを持つキリスト教の神観に対し、母性的な神、「同伴者」としてのイエスという遠藤独自のキリスト教観による作品へと繋がっていった。
遠藤の母のカトリック信仰に基づいた教育は、安倍晋三元首相の暗殺事件後、厚生労働省が急ごしらえした「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」という宗教差別に繋がる懸念を国内外から指摘されているガイドラインなどからすると、虐待とも言われかねないものだ。しかし、遠藤はその背後に母の愛があることを理解していた。
遠藤の偉業を振り返れば、親から子への信仰の伝達を否定的に捉え、いわゆる宗教2世をただ被害者とのみ捉えることの誤りは明らかだ。真摯(しんし)な葛藤の中から生まれる創造の芽を摘むようなことがあってはならない。(信教の自由取材斑)