愛知県岡崎市 拠点となった本證寺、上宮寺、勝鬘寺
親鸞の東国布教が始まり
武装解除して影響力排除
若き徳川家康を苦しめたのが三河一向一揆で、永禄6(1563)年からほぼ半年間、西三河全域で続いた。松平家の支配下ではなく曹洞宗の勢力が強かった東三河では起こっていない。

三河は戦国時代、既に一向宗(浄土真宗)の一大勢力地であった。一向宗の開祖・親鸞が、佐渡の流刑を赦免(しゃめん)になった後、東国を布教したことはよく知られるが、箱根での布教の後、1235年に三河に立ち寄り、愛知県岡崎市の妙源寺に17日間逗留(とうりゅう)して、熱心に布教している。そもそも松平氏の始祖・松平親氏(ちかうじ)は時宗の遊行僧とされ、浄土宗大樹寺(だいじゅじ)が菩提(ぼだい)寺なので、三河の人たちには念仏の教えがなじみやすかったのだろう。室町時代、中興の祖・蓮如が三河の土呂に本宗寺(ほんしゅうじ)を創建したことで、さらに活動が活発になった。
一揆のきっかけになったのは、今川との戦いに備えるため家康が、税を取り立てない「不入の特権」を認めていた一向宗の寺にも兵糧米の供出を求めたこと。始まりは経済戦争である。

家康にとっての誤算は、一揆方に付く家臣が出てきたこと。彼らは「主君の恩は現世のみだが、阿弥陀の恩は未来永劫(えいごう)」と考え、寺に立てこもり「進めば往生(おうじょう)極楽、退けば地獄」と門徒らを指揮した。その中には今川の人質時代から家康に仕え、後に帰参して幕府の重臣になった本多正信や徳川十六神将に挙げられた渡辺守綱(もりつな)らもいた。拠点になったのは本證寺(ほんしょうじ)、上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)の「三河三か寺」。
蓮如は、それまで一段高い高座から語ることをやめ、人々と同じ目線で、膝を突き合わせて親しく教えを説くようになる。真宗の同朋(どうほう)意識、今でいう共生きの思想で、封建社会では考えられない対等な人間関係が人々を感銘させたのである。

信仰で結ばれた門徒らは勤勉に働き、各地で寺内町を形成する。三河には千軒もの家の周囲に堀を巡らせ、矢作川(やはぎがわ)の舟運を利用し、盛んに商売していた。石垣を巡らし、堀で守られている寺も同じで、守りの僧兵も抱えていた。そこから税金を取れないのだから、戦国武将も手を焼いたであろう。
最大の拠点になったのが本證寺。まるで戦国時代の平城で、境内には土塁の跡もあり、広い堀にハスが咲いていた。感心したのは本堂前に、紙のハスの花が3輪、置かれていたこと。平和な時代に感謝した。

築地本願寺のようなインド式のモダンな本堂になっていたのが上宮寺。寺は一向一揆で破壊されたが、徳川家康の乳母妙春尼(みょうしゅんに)の尽力で天正13(1585)年ようやく寺院の復興が許されたとあり、境内には妙春尼・妙怡尼親子と佐々木月樵(げっしょう)の墓があった。三河一の伽藍(がらん)を誇った木造の本堂は昭和63年に焼失し、平成8年に21世紀を見据えたデザインで現本堂が再建された。
上宮寺の開創は聖徳太子で、推古天皇6(598)年、聖徳太子が仏法興隆のために全国を巡行した折、当地で見つけた霊樹で自身の像を作り、堂を築いて布教の拠点としたという。
聖徳太子が著したとされる『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』が注釈した一つ『勝鬘経』から名付けられたのだろう勝鬘寺を訪ねると、隣の幼稚園から子供らの声が聞こえてきた。歴史のある寺も、それぞれ今の時代に生きている。
一揆鎮圧後の家康は、武装解除した寺内町の堀を埋め、解除に応じなかった寺を壊して抵抗の芽を摘み、これによって三河全体を治める戦国大名に発展した。これ以後20年、三河では真宗が禁じられ、武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いでも、本願寺の呼び掛けで信玄に呼応する門徒は現れなかった。
(文・多田則明)