ちりぢりになった先祖たち
「山間の小さな城下町に、初秋の風のおとづれを聞くやうになつた」
作家・中山義秀の名作「碑(いしぶみ)」の中の一節で、小さな城下町とは福島県長沼町のことだ。この文学碑がこの町の長沼城跡の麓にある。岩壁に黒大理石に刻まれた碑がはめこんである。
今日、ここを訪れても、田畑と山野の広がる小さな田舎町で、城下町という趣には乏しい。
栄えたのはかつて白河から長沼宿を経て、勢至堂峠(せいしどうとうげ)を越えて会津若松に行く道が会津街道と呼ばれた時代だ。会津藩の大名が参勤交代で通ったという。
奥州街道の須賀川、郡山にも通じる交通の要地だったが、明治時代になると交通の要路が他に移り、封建制度も崩れて、旧街道筋の町や村はすたれていく。
中山義秀の故郷は隣の大信(たいしん)村(むら)で、今では記念文学館が村役場の隣にできて、彼の業績を顕彰し、作品に描かれた地元の素晴らしさを訴えている。が、彼の祖父がここに移ってきたのは明治になってからで、この小さな城下町こそが先祖の発祥の地だった。
17世紀半ばの明暦の年以前から明治初年まで、二百数十年間ここに住んでいたという。だが、ある事件を最後に先祖たちは町を去り、ちりぢりになってしまう。
その事件こそ「碑」で描かれた出来事で、随筆「いしぶみの秋」によると、「一家の恥」であり、「不祥事」であり、公にすることを誰も好まなかったという。
明治3年の旧暦8月25日、太陽暦の9月23日、秋も半ばに近い時に起きた。士族である祖父の兄弟が起こした事件で、弟が発狂して母を殺すと、兄はそのままにしておけず、仇(かたき)を討ったという。仇討ちが禁止される前のことだった。義秀は「白刃をひらめかせて死闘をつづけたといふ、祖父兄弟の姿はなにやらいたましい」と悲劇を語る。
それを小説で描いたのだ。その思いをこう記している。
「先祖達の好まぬことかもしれないが、私は郷土を愛するように先祖を愛してゐる。私は血の流れを受けついだ者として、先祖の悲劇を弔わずにはゐられなかつた」
文学碑は昭和37年9月に建立された。除幕式の場面が「中山義秀全集」第9巻の表紙に使われている。肩の荷を下ろしたという表情だ。
(増子耕一)