旧幕臣・大鳥圭介の敗走のルート
母成峠古戦場を訪ねる
福島県の石筵(いしむしろ)ふれあい牧場の先から中ノ沢温泉まで、母成(ぼなり)グリーンラインが通っている。このルートは安達太良山の南西の山中を走り、磐梯熱海温泉から吾妻スカイライン方面に行くドライブコースの一つになっている。
このラインが開かれたのは昭和57年のことで、平成18年まで有料だったが、その後無料開放された。有料だったころ、中間点にある母成峠(972㍍)にはひなびた茶屋があったが、その後訪ねてみると茶屋はもうなくなっていた。
峠の下の中ノ沢温泉側には広い駐車場があり、「戊辰戦役母成峠古戦場」の大きな石碑がある。この碑はグリーンラインができた後の昭和57年の建立だ。
その側面には東軍と西軍の主だった指揮官らの名前が記されている。東軍の筆頭にあるのは旧幕臣・大鳥圭介だ。土方歳三の名前もある。
大鳥はこの戦役についての敗走記「南柯日記」を残していて、これを常に愛読し興味をもっていたというのが作家の大岡昇平だった。
大岡は昭和20年1月にフィリピンのミンドロ島で米軍の捕虜となった。その敗戦体験と重ねて無関心ではいられなかったようだ。「檜原(ひばら)」(昭和31年1月「文藝春秋」)は、大鳥の文章に感銘を受けた大岡が、その過程をたどって記した旅の随筆だ。
戦いに敗れた大鳥らは、母成峠から撤退して会津若松に向かおうとしたが、猪苗代方面は閉鎖されて通れず、磐梯山の北側を迂回(うかい)して米沢道に出て大鹽川(おおしおがわ)に沿って下ろうとした。だが、山道に迷う。
焼山(やけやま)と鞘(さや)ノ木山の間の道を通って木地小屋で一泊。大鹽から会津に行こうとすると、逃げ延びてきた人々に出会う。戦況を聞いて来た道を戻り、檜原を経て米沢領に入ろうとした。が、許可されず、また会津盆地にも行ってみるが何もできない。結局、土湯峠を越えて、福島から仙台に行き、榎本武揚(えのもとたけあき)の艦船に乗せてもらって函館に逃げ延びた。
「南柯日記」は混乱した散文の記述の間に漢詩があり、大岡はその詩情に感銘を受けたという。大鳥は赤穂在岩木の儒家に生まれ、閑谷(しずたに)学校に学んで、詩文をよくした。
この記録は函館戦争で敗れた後、東京の牢獄で塵紙(ちりがみ)に書いたそうだ。後に工部大学校長、朝鮮公使、男爵になった大鳥は、この敗戦を一夜の夢として顧みることがなかったというが、大岡によれば、日清戦争の口火を切った事績よりも、「南柯日記」に記された真実によって残るだろうと評価する。これは大岡の名作「俘虜記(ふりょき)」に相当すると言えるのだろう。
大岡は昭和30年の夏、大鳥らが母成峠までやってきた道をそのままたどって、栃木県の塩原から藤原、川治、福島県の田島を通って会津に入り、猪苗代から中ノ沢温泉、母成峠、そして檜原湖へと旅した。
ところが明治21年に磐梯山が爆発して風景を一変させてしまっていた。「南柯日記」の文章は現実の地理と一致しない。大鳥が彷徨(ほうこう)した檜原、秋元原は堰(せき)閉めされて檜原湖、秋元湖になり、水をたたえていた。
現地を訪れた大岡は「湖岸の浸食も進まず、沿岸の樹木も何となく水になじまずに風情である」と書いたが、今や樹木はさらに育って緑が濃くなり、観光の名所となって大勢の観光客を迎えている。
(増子耕一)