富士吉田市 如来寺の人たちと共に
ブロンズ像飾り聖徳称える
帰路に紫式部と小野篁の墓へ
この8月3日、私は恒例の「聖徳太子像富士登山」に参加、八合目に聖徳太子のブロンズ像を飾り、富士吉田市にある如来寺の人たちと共に「太子和讃(わさん)」を唱え、太子の聖徳を称(たた)える法要を行った。江戸時代の富士講の伝統を復活するため平成21年に始め、コロナ禍での中止を挟み、14回目。これまで最高の晴天で、見渡す限りの雲海の向こうに八ヶ岳などが峰を出し、時々、雲の切れ間から河口湖が顔を見せ、爽快な登山だった。
私の寺も如来寺と同じ浄土真宗本願寺派(西本願寺)で、念仏ばあさんの祖母に連れられ寺の日曜学校に通ったのが信心の始まり。突然死した愛犬に念仏を唱えてくれた祖母に感謝しながらも、夜には寝ながら父と口げんかする祖母に、信仰と人格は別物かしらと疑問も感じていた。
浄土真宗の宗祖親鸞は「和国の教主」と呼ぶほど聖徳太子を崇拝していた。私も日本の仏教史を学ぶにつれ、仏教という渡来の普遍宗教が日本に土着できたのは太子がいたからとの思いを強くした次第。
登山後、富士山駅発の夜行バスで京都駅に着き、地下鉄で鞍馬口へ。少し北の紫明通(しめいどおり)を堀川通まで歩き、紫式部の墓に参ると、隣に小野篁(たかむら)の墓があった。堀川通に面して「小野篁卿墓」と「紫式部墓所」の石碑があり、そこを入ると確かに2人の墓が並んでいる。いずれも土饅頭(どまんじゅう)の上に石塔がある造りで、誰かがお参りした跡もある。平安時代ここには淳和(じゅんな)天皇の離宮があって、式部は亡くなるまでそこで暮らしていたという。京都市の建札(たてふだ)には、ここから東北の地はかつて小野氏の領地で、後に藤原氏の所有となったとあった。本当に2人がそこに眠っているかどうかは分からない。
小野篁は小野小町の祖父ともされる平安時代の官僚。昼は朝廷で、夜は冥界で閻魔(えんま)大王の臣下として働き、やってきた亡者にふさわしい行き先を六道の中から決めていたそうで、いわば地獄の裁判官だった。篁が通った「冥土通いの井戸」は東山の珍皇寺(ちんのうじ)に、帰りの「黄泉(よみ)がえりの井戸」は嵯峨野の福成寺に残されている。
小野篁が閻魔大王と出会ったのは彼が11歳の夏。帝の庭園の「神泉苑」で魚釣りをしたため、池の主の龍が怒って篁を底深い地獄へ引きずり込むと、そこに大王がいた。「干ばつで苦しむ庶民を助けるために、わざと龍を怒らせて雨を降らせた」と釈明する篁に感心した大王は、彼を地獄から助け出す。その後、200年の間、地獄の冥官をしていた僧が交代を申し出ていたので、成長した篁を地獄の冥官に任命したという。彼は閻魔大王に呼ばれると夜中に冥土へ出向き、朝方に現世に戻って宮中に出仕するようになった。地獄で篁に助けられた貴族が、宮中で会った篁に礼を言ったという記録もある。
式部と篁の墓が隣接しているのには諸説ある。「源氏供養」という能の演目では、式部は仏教で禁じられている虚言や、若者に劣情を起こさせるような男女の性愛の話を書きすぎ、地獄に落とされたとしている。その式部を助け出すため、篁は閻魔大王にお願いして地上に戻し、自分の墓の隣に埋葬したという。他には、地獄に落ちた式部を哀れむ多くの読者が、篁に彼女を助けてほしいと頼み、彼の墓を式部の墓の横に移したとの説もある。
紫式部が生きた時代、浄土教は最新の仏教で、『源氏物語』最後の宇治十帖は浄土信仰で書かれている。式部は、藤原道長の命で、虚実まじえいろいろ書いてきたが、最後は浄土信仰でまとめようと思ったのだろう。
面白いのは、紫式部が地獄に落ちたという話が広まる一方で、彼女は実は石山寺の観音の化身で、人々を仏道に結縁(けちえん)させるために『源氏物語』を書いたという伝承が生まれたこと。恋愛話に引かれながらも、人々の最後の関心が「死後の問題」だったのは興味深い。
(文・多田則明)