室生犀星と堀辰雄 大震災で深まった交流

室生犀星(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
堀辰雄(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

母失った辰雄を金沢へ呼ぶ

師弟と言うより父子

大正12(1923)年の関東大震災から明日で101年。大震災は日本社会を大きく変えたが、文学界に与えた影響も大きいものがあった。東京・日本橋生まれの江戸っ子、谷崎潤一郎は震災後、関西に移住する。大阪・船場の姉妹を描いた『細雪』などの代表作も、関西移住なくしては生まれなかっただろう。

大震災は作家たちの人生を、大なり小なり左右したが、堀辰雄は生涯にわたる影響を受けた。当時両親と向島に住んでいた堀辰雄は3人で隅田川に避難し、辰雄は川を泳いでいたところを助けられ九死に一生を得るが、母の志気(しげ)は水死する。辰雄は母の死のショック、その行方を捜しまわった心身の疲労から胸膜炎にかかる。

その辰雄を親身になって気遣ったのが、辰雄が師事した詩人の室生犀星だった。犀星と辰雄の交わりは、震災の前年の5月、辰雄が母の志気に伴われて田端の犀星宅を訪ねたことに始まる。この時、辰雄19歳、第一高等学校の3年生だった。犀星の『我が愛する詩人の伝記』にこうある。

「或る日お母さんに伴はれて来た堀辰雄は、さつま絣に袴をはき一高の制帽をかむつてゐた。よい育ちの息子の顔附きに無口の品格を持つたこの青年は、帰るまでなにも質問もしなかつた」

辰雄が文学の道を志しているのを知りその大成を願った母に伴われての訪問だった。以来、犀星と辰雄は終生の交流を続ける。

震災から6日後、辰雄は田端の犀星宅を訪れる。被災の顛末(てんまつ)、母の死を告げ、ともに涙を流すのである。

一方、自宅は大丈夫だったものの、犀星一家は8月に長女の朝子が生まれたばかりだった。一家3人は10月、郷里の金沢に疎開する。その犀星に辰雄は手紙を送り近況を伝える。辰雄の身の上を心配した犀星は金沢に来ることを勧める。

10月19日消印の犀星から辰雄宛ての書簡。「手紙を見て君にやはりお母さんが居られたらいいと考えてゐる。とにかく学校はやりたまへ、そのうちこちらへ出かけて来たまへ(後略)」

11月30日の消印のある辰雄宛ての絵葉書ではこう書いた。「来たいと思つたら何時でも来たまへ、汽車賃だけ持つて来たまへ、落葉の下から水仙が伸びてゐる古い町だ」。

葉書を受け取った辰雄は金沢の犀星を訪ね数日滞在、傷心を癒やす。翌年の7月にも辰雄は金沢の犀星の元で3週間ほど滞在する。この時は、犀川で泳いだり、投網を打って鮎を捕ったりした。辰雄は少しずつ快活さを取り戻していったようだ。

犀星と辰雄の交流は、文学の師弟というよりは、父子のような関係だった。室生朝子氏は、軽井沢の別荘に辰雄が訪ねて来る時も、「父を先生とは一度もいわず『お父さん、いる』これが挨拶であった」と述べている(『父室生犀星』)。

自身、生母と生き別れ不遇な少年時代を送った犀星、最愛の母を失った才能豊かな辰雄への思いは、文学の師弟関係以上のものがあった。

朝子氏によると、室生一家は辰雄のことを親しみを込めて「辰っちゃんこ」と呼んでいた。昭和19年、軽井沢へ疎開したいと考えていた犀星の悩みは、脳出血で半身不随となった妻のとみ子が疎開に同意しない事だった。ところが、堀辰雄が6月に、軽井沢に疎開したのを見て、とみ子は「あんな身体の弱い辰っちゃんこが、軽井沢に行くなら、私だって大丈夫ね」と疎開を決意した。朝子氏は「父とても深い感謝の心を持っていたはずである」と述べている。

(特別編集委員・藤橋進)

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