
300万人の犠牲者を出した先の大戦では、本土と戦地の間の海上輸送を担った輸送船団も大きな犠牲を出した。神戸市の元町駅からほど近く海岸道路に面した全日本海員組合の「戦没した船と海員の資料館」では、これらの歴史を記録し、犠牲となった会員を顕彰している。
緒戦で破竹の進撃を見せた日本軍は、東南アジアから太平洋の諸島の広大な地域を占領し、戦線を拡大させた。それら占領地から日本本土への資源輸送、本土から前線への兵員、武器弾薬、食料などの輸送を戦時動員された民間船舶の海上輸送船団が担った。
戦争初期は敵の魚雷の性能の低さなどがあり、船団への被害は大きくなかった。しかし、1943年末には欧州戦線の先が見えて来た連合国軍は、大西洋に展開していた多くの艦船を太平洋に、潜水艦を大量建造するなどして、本格的反攻を開始。年末から日本の輸送船の被害が増大する。終戦までに7000隻を超える商船が沈められ、船員6万人以上を含む数十万人が犠牲となった。
海上輸送の途絶は、日本軍の敗北の大きな要因となったことはつとに指摘されている。第1次大戦でドイツが潜水艦Uボートによる通商破壊戦を展開したことを日本海軍も研究はしていた。しかし、艦隊決戦志向が強い日本海軍の輸送船団の護衛に対する認識は十分でなかった。軍備は正面装備を中心に強化され、護衛艦、護衛航空機の準備がほとんど行われなかった。海上護衛総司令部が設立されたのは遅きに失するものだった。
資料館の第一展示室には、中央に戦没した船舶の模型が置かれ、周囲の壁面に戦没船舶の、アルミ特殊加工された写真が展示されている。その数約1500枚。これらが皆、魚雷攻撃や航空機による爆撃で海の藻屑となり、多数の乗組員が犠牲になった事を思うと、慄然(りつぜん)とさせられ、そして悔しい気持ちが湧いてくる。
資料館のまとめによると、戦没船員約6万人の内、20歳未満が19048人、20代が16601人で、海の殉職者の約6割が30以下の若者だった。修学旅行で来た中学生らしきグループに説明する係員もこの点を強調していた。
同資料館は入場無料。土・日・祝日休館。
(特別編集委員・藤橋進)