「開創1150年記念 醍醐寺 国宝展」大阪市の中之島美術館で開催

修験道と融合した真言密教の拠点

豊臣秀吉の「醍醐の花見」で有名

醍醐寺を開創した理源大師坐像

大阪市北区にある大阪中之島美術館で8月25日まで、「開創1150年記念醍醐寺国宝展」が開かれている。近現代美術を収集・保管・展示する同美術館で醍醐寺(だいごじ)展を催す意味について菅谷富夫館長は、大坂をつくった豊臣秀吉が応仁の乱などで荒廃した同寺の復興に貢献したことを挙げた。

京都市伏見区にある醍醐寺は、平安時代前期の貞観16(874)年に理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)によって開創された真言密教の拠点寺院の一つ。聖宝は空海と同じ讃岐(さぬき)(香川県)の塩飽(しわく)諸島・本島(ほんじま)の生まれで、空海の実弟・真雅(しんが)の弟子。宇多天皇の篤(あつ)い帰依を受け、東寺長者、僧正などの重職を務めた。また、役小角(えんのおづぬ)に私淑して吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行を行い、修験道の再興の祖ともされる。

観賢が安置したとされる如意輪観音坐像

桜で知られる下醍醐から山道を登り、上醍醐を訪ねると、同寺が修験道の寺であることを実感する。准胝堂(じゅんていどう)跡の前には修験僧3人の像があり、中央が聖宝、向かってその右に役小角、左が直弟子で醍醐寺初代座主の観賢(かんげん)とされる。観賢は東寺長者の時、空海への大師号下賜に貢献したことで知られる。

歴代の皇族や公家、秀吉ら武家の信仰を集めた醍醐寺は、醍醐山山上(上醍醐)と山裾(下醍醐)の二つの伽藍(がらん)を有する「山の寺」で、国家安泰や祈雨など種々の祈願の場として、江戸時代初期からは修験道の拠点として発展してきた。

鳥羽天皇の皇后・待賢門院の安産祈願で作られた閻魔天騎牛像

空海が唐で学んだ当時最先端の密教は大乗仏教の最終ランナーで、インド古来のヒンズー教の神々を取り入れたのが特徴である。宗教学者の島田裕巳氏は逆に、ヒンズー教が仏教をのみ込んだとまで言う。その密教が日本で古来の山岳信仰と融合したのも興味深く、融合に決定的な役割を果たしたのが聖宝だった。島田氏風に言うと、役小角創始の修験道が仏教を吸収したとなる。

醍醐山の頂上にある上醍醐に登ると、日本古来の山岳信仰と真言密教が融合した信仰の場に出会う。醍醐寺の始まりは、聖宝が笠取山の山頂に草庵を結び、准胝観音と如意輪観音を祀(まつ)ったことにある。やがて醍醐寺は醍醐天皇の御願寺(ごがんじ)となり、天皇の庇護(ひご)のもと上醍醐に薬師堂や五大堂が建立された。薬師堂には今日に伝わる薬師三尊像をはじめ、今回展示の吉祥天立像(きちじょうてんりゅうぞう)や帝釈天(たいしゃくてん)騎象像などが祀られた。大威徳明王(だいいとくみょうおう)像は創建期の像で、創建期に遡る初期密教像として貴重である。

上醍醐にある3人の修験僧の像

延長4(926)年、下醍醐に釈迦(しゃか)堂が建立され、天暦(てんりゃく)5(951)年には下醍醐に五重塔が建立され、醍醐寺は上醍醐と下醍醐の2伽藍からなる大伽藍となったが、上醍醐は開祖聖宝ゆかりの聖地として特別な信仰を集め続けている。

平安時代から鎌倉時代にかけて醍醐寺は高名な学僧や験力(げんりき)の強い僧侶を輩出し、あたかも密教修法の研究センターの様相を呈していた。彼らは自流のみならず他流の情報も集め、詳細な記録に残し、修法の本尊を描くための設計図である「図像」も熱心に収集した。その結果、醍醐寺には近年国宝に指定された文書聖教7万点が伝わっている。

醍醐寺霊宝館の枝垂れ桜

室町時代、兵火によって五重塔を残して灰燼(かいじん)に帰し下醍醐の復興に尽力したのが醍醐寺座主の義演(ぎえん)で、秀吉の支援で実現した。秀吉は慶長3(1598)年に贅(ぜい)を極めた「醍醐の花見」を行い、秀吉の死後も北政所(きた のまんどころ)をはじめ豊臣氏による復興は続き、今日、三宝院の長谷川派の襖絵(ふすまえ)をはじめ、俵屋宗達の舞楽図屏風や扇面散図屏風など近世の名画が数多く伝わり、桃山時代の美の殿堂にもなっている。

同展では、「山の寺醍醐寺」「密教修法のセンター」「桃山文化の担い手」の三つの章から成り、同寺に伝わる国宝14件、重要文化財47件を含む約90件の宝物を紹介。秀吉や北政所が愛した「醍醐の桜」にまつわる寺宝も花を添えている。

(多田則明)

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