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香川県まんのう町 満濃池

嵯峨天皇の命で空海が修築

田植えに向けて「ゆる抜き」

神事を終え取水塔に向かう神職・関係者ら

最後のかさ上げ完成は戦後

香川県西部のまんのう町にある満濃池(まんのういけ)は貯水量が1540万㌧の国内最大級のため池で、古くから渇水に悩まされてきた香川県の貴重な水源地として利用され、国の名勝に指定されている。2016年には国際かんがい排水委員会(ICID)による「世界かんがい施設遺産」に四国で初めて選出された。

満濃池は701年から704年にかけて讃岐(さぬき)の国守道守朝臣が創築したが、平安時代の818年に洪水で堤防が決壊し、朝廷の築池使が派遣され復旧に着手するも工事は難航。821年に嵯峨(さが)天皇の命令で弘法大師空海が築池別当(監督)として派遣され、約3カ月かけ修築したことで知られる。その後も、満濃池は決壊、復旧を繰り返し、最後のかさ上げ工事が完成したのは戦後であった。

その空海の誕生日にあたる6月15日、満濃池の水門を開けて下流に水を送る「ゆる抜き」が行われた。田植えに向け、地元の自治体や池を管理する土地改良区の関係者らが参加する神事が、満濃池入り口の高台に鎮座する満濃池の守護神・神野(かんの)神社であり、その後、代表者らが堤防から突き出た取水塔に移動し、ハンドルを回して水門を開けた。

すると、放水口から大きな音を立ててしぶきをあげながら最大毎秒5㌧の水が勢いよく流れ出し、見守る人たちから歓声が上がった。満濃池から放流される水は、近隣の五つの市と町にある約3000㌶の水田を潤す。水の管理は現在は電動式の水門だが、かつては木製の「ゆる」だったことから、田植えの時期に水門を開ける作業は今も「ゆる抜き」と呼ばれ、香川の初夏の風物詩となっている。満濃池の北西岸にある真言宗善通寺派の神野寺では「ゆる抜き特別護摩」が厳修されていた。

空海が満濃池修築を命じられたのは、都で行った密教修法の評判が讃岐にも届き、空海の修法の威力に期待が寄せられたから。地元の人たちの嘆願を受け、国司が朝廷に請願書を出し、それに朝廷が応じたのである。満濃池の土木工事を監督・指揮するため、空海は若い僧と4人の童子を引き連れ、故郷へ向かったという。

空海は満濃池に突き出た大きな岩の上に壇を設けて護摩をたき、改修工事の安全・成就を願う修法を行い、渡来人の技術者や多くの人夫を使い改修工事にとりかかった。空海が用いた余分な水を流下させる「余水吐き・余水路」の仕組みや、水の圧力を分散させるアーチ型の堤は現代のダムにも採用されている。好奇心旺盛な空海は留学した唐で先進的な土木技術も学んだのであろう。

公共事業を行う僧は奈良時代の行基が有名で、香川県には行基が造ったとされる「から風呂」や寺などが弘法大師と並んで多い。いずれも高僧の事業に参加することで功徳を積めるとの思いからで、それが多くの庶民にとっての「救い」だったのだろう。

人々の倫理観は、より公的なものにかかわることで向上する。身近な人のためから地域や国のためと対象が広がるに応じて、より高い倫理観が要請されるからである。それに応じるには知識や技術も必要で、公的なものにかかわりながら成長していくのが人生とも言えよう。

功徳を積もうと思って空海の事業に参加した人たちは、それを通して成長する自分を発見し、喜んだに違いない。だからこそ、参加を希望する人が絶えなかったのである。

聖徳太子が願った仏教立国は、聖武(しょうむ)天皇による大仏造立で概成したが、それは政治的な話で、国民一人ひとりの形成は行基や空海らの社会事業が大きな役割を果たしたのであろう。つまり、宗教の核心は倫理観の高い人づくりにあり、その伝統が江戸時代の鈴木正三(しょうさん)や石田梅岩(ばいがん)らの、山本七平のいう日本的資本主義の倫理を形成したのである。香川県東部で農業をしている筆者が満濃池の水を使うことはないが、空海の思想は日々の農作業の支えになっている。

(多田則明)

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