郷愁を誘う白河の関を訪ねて 福島県白河市

古代の3関の一つ 歌人の心魅了

芭蕉も みちのくの玄関口に

松平定信が定めた白河関跡

みちのくー郷愁を誘う響きである。「白河の関」以北がそう呼ばれ、その呼称は古事記の「道奥(みちのおく)」に由来すると言われる。白河の関とは古来より勿来関(なこそのせき)、鼠ヶ関(ねずがせき)と並ぶ3関の一つで多くの歌人の心を魅了してきた。

松尾芭蕉が漂泊の想いに誘われ江戸を出発し、みちのく入りしたのは1689(元禄2)年4月20日、陽暦で6月7日。芭蕉と連れの河合曽良の2人はまず、「境の明神」に参詣した。これは下野国(しもつけのくに)と陸奥国の境、現在の国道294号線の栃木と福島の県境にある二つの神社のことである。江戸時代、奥州街道と呼ばれたこの国道は、近くには白坂宿があり、参勤交代で利用されるなど交通の大動脈だった。今は車の往来を除けば森に囲まれひっそりとした場所。

芭蕉と曽良が訪れた境の明神・玉津島明神

両神社を訪ねると、福島県側の神社により力が入っているのが分かる。句碑や案内板が幾つも設置され、芭蕉の足跡を求めて訪れる人たちを迎えてくれる。

「白河の関」とは古代、蝦夷(えみし)の南下を防ぐために設けられた要衝で、平安時代以降は律令制度の衰退とともにその機能は失われていったと考えられている。そのため、芭蕉が旅した江戸時代にはすでにその場所が不明となっていた。芭蕉一行は古関跡を求めて境の明神から東へ7㌔ほど行った旗宿(はたじゅく)という場所に宿をとった。ここに現在の国指定史跡「白河関跡」がある。

白河の関は実際、どこにあったのか。玉津島明神(現・境神社)の神主・水谷良治(よしはる)さん(81)は、「現在の白河関跡は松平定信が定めたもの。だが、本当はこちら(境の明神)ではないか。国境に神社が隣り合っている。松平定信によって認定された白河の関は、国境の神社が遠く離れていて、しかも栃木県側の神社は規模が小さい」。

松平定信が考証を行い、現在の場所を白河関跡と定めたのが1800年のこと。芭蕉が旅した100年以上も後のことである。国は発掘調査を行い、出土した柵列などの遺構やさまざまな土器等から、縄文から古代・中世に至る複合遺跡であるとし、昭和41年、現在の場所を国指定史跡に認定した。

能因法師が「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠み、西行が「都出でて逢坂越えしをりまでは心かすめし白河の関」と詠んだ憧れの地、みちのく白河の関。しかし芭蕉は白河の関では句を詠んでいない。いや、詠んだとされる句はあるが、「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)には収録されていない。「ほそ道」には「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記しただけで、さらに北を目指して須賀川に出発した。

須賀川で白河の関について問われた芭蕉は「長途のくるしみ、身心つかれ、且つは風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思いめぐらさず」と答えた。(疲れたし、素晴らしい風景に心も奪われ、文人墨客たちの昔をしのび、断腸の思いにとらわれて句を詠めなかった)と。万感の思いに満たされたとき、人は言葉を失う。その気持ちをいくら言葉で表現しようとしても空疎なものとなってしまう。芭蕉はあえて句を「ほそ道」に入れなかったのだと思う。

古跡周辺は「白河関の森公園」として整備されている。公園内には曽良が「ほそ道」で「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」と詠んだ卯の花が咲いていた。

(長野康彦)

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