コロナ禍を教訓に、将来的な感染症のパンデミック(世界的大流行)に備える国際条約「パンデミック条約」の採決を目指した世界保健機関(WHO)の議論は、先進国と発展途上国との間での溝が埋まらずに行き詰まっている。もともと新型コロナウイルスへの対策が後手に回ったことや中国寄りの姿勢などが批判されてきたWHOへの不信の声はいまだ根強く、東京都内でもパンデミック条約は国家主権を侵害しかねないとして反対デモや集会が相次いでいる。(石井孝秀)

パンデミック条約はコロナ対策の初動ミスなどを教訓とし、感染症対策の世界的な強化を謳(うた)うWHOで検討されてきた。特にワクチンや医療物資の配分で先進国と途上国との間に格差が生まれたことから、配分の公平化、情報共有の徹底を狙いとしている。2021年に欧州連合(EU)が提唱し、22年2月から交渉をスタート。今年5月にスイス・ジュネーブで行われた年次総会までに各国での合意を進め、総会での採択を目指していた。
しかし、ワクチン分配の方策などで先進国と途上国の対立は解消されず、採択は来年の総会まで見送る結果となった。条約案では、病原体の情報やサンプルを締約国同士や製薬会社間で共有し、先進国がワクチンや検査キットなどを途上国に供給する仕組みとなっている。医薬品の公平性・平等性を願うアフリカなどの途上国は歓迎しているが、負担を避けたい先進国は難色を示した。

「途上国にとってはいいが、先進国にとっては不公平」と指摘するのは、5月23日に都内で開かれたパンデミック条約反対集会で講演した国際情勢アナリストの及川幸久氏。「条文では各国の主権を侵害しないと明文化しているが、パンデミック条約は国際協力があって初めて成り立つ。すべての国に入ってもらわなければ困ると、強制してくることがこれから起こるだろう」と述べ、条約への反対を主張した。
同22日に行われた国会議事堂前での街頭演説では、ジャーナリストの我那覇(がなは)真子(まさこ)氏などがマイクを握った。我那覇氏は海外でワクチン強制接種の反対運動に関わった人物が、クレジットカードや銀行口座を止められたケースがあったと紹介。パンデミック条約などの取り組みが「世界各国から主権を奪い、ワクチンの強制にもつながりかねない。自分たちの思ったことを言える国にしたい」と訴えた。
パンデミック条約の年内合意が困難となった一方、ジュネーブでのWHO総会では感染症対策を定めた「国際保健規則」(IHR)の改正案が採択された。IHRはもともと存在していた国際規則で、感染症など健康上の緊急事態が生じた際は国際的な通知を義務付けるなど、被害の拡大防止を目的としている。
改正されたIHRでは、重大な感染症危機が起きた場合、「パンデミック緊急事態」を認定する制度などを新設。テドロスWHO事務局長は「IHRの強化はパンデミック協定の締結に向けた強力な弾み」とし、コロナウイルスによる「健康、社会、経済への打撃の再発を防ぐのに役立つ」と説明した。
だが、改正案の中には誤情報・偽情報への対処に関する文言も盛り込まれ、ワクチンやウイルス起源などの議論の検閲につながる懸念もある。また、満場一致というわけではなく、アルゼンチンのように反対を表明している国もある。
WHOの総会期間中となる5月31日には、「WHOから命をまもる国民運動」が決起集会を開催した。平日にもかかわらず、北海道から沖縄まで全国から1万人を超える支援・賛同者が厚生労働省前の日比谷公園に結集。デモ行進は日比谷公園を出発し、「WHOを脱退しろ!」などと叫びながら、銀座の街を練り歩いた。
こういった動きに対してWHOや日本政府は、パンデミック条約などによるワクチン強制や主権侵害はないとしており、そういった主張を「誤情報」として扱っている。しかし、WHOは過去、コロナ対策の封鎖措置(ロックダウン)解除を検討する各国に対し、強い警戒を求める声明を出すなど、パンデミック対策という大義の下、各国の動きに意見する姿を見せてきた。国民感情を逆なでした点もあるだろう。
WHOへの不信感が払拭(ふっしょく)されるのは、まだ先になりそうだ。