仏教とキリスト教の違いを超えた汎神論
共通する思想は感情や欲望重視
宇宙・自然と一つになる
5月初旬、空海への弘法大師号(こうぼうだいしごう)の下賜に大きな役割を果たした東寺長者・観賢(かんげん)僧正の1100年遠忌(おんき)法会(ほうえ)のため高野山を訪れ、空海が開いた真言密教における「救い」を考えながら、歴史上の人物らの墓や供養塔がたたずむ奥之院への道を、数年ぶりに歩いた。そこで気付いたのは、汎神論で知られるスピノザの思想との共通性である。
オランダ・アムステルダムのユダヤ人居住区に生まれたスピノザ(1632~77年)は、「聖書は真理の書ではなく道徳の書だ」と言ってユダヤ教会とカトリック教会から破門されたが、44歳での没後にまとめられた『エチカ』は西洋哲学史上最高の著作と評価されている。アインシュタインは「スピノザのいう神なら信頼できる」と言ったという。近年、解説書の出版が相次ぎ、岩波書店から全集が刊行されている。
彼が『エチカ』で説いたのは、隷属から自由へ、自由から幸福へ至る道で、無限の神は宇宙そのものであり、人間をはじめすべての存在は神の中にあるとする。それゆえ、有限の人間に無限を希求する本性が宿り、神の現れとして能動的に生きるとき、人は自由を感じ、幸福に至るという。
松長有慶・高野山真言宗元管長は『空海』(岩波新書)で、空海の思想は「瑜伽に始まり瑜伽に終わる。つまり空海の現世が、無限性と常につながりをもつ」と端的に説明している。瑜伽(ゆが)とはインド古来の瞑想(めいそう)、座禅のことで、空海は高野山で瞑想しながら死を迎えたことから、「今も生きて衆生の救いのために働いている」という大師信仰が生まれた。四国遍路はその表現の一つである。
密教という仏教の最終ランナーはインド古来のヒンズー教の神々も取り込んだことから、神仏習合はすでにインドで始まり、中国では道教や儒教と習合し、日本に渡来して神道と一つになった。その密教の教義を初めて体系化し、実践したのが空海である。即身成仏の思想はインド仏教にも見られるが、それが実現したのは日本。空海が留学した唐の長安は、世界最古の国教ゾロアスター教をはじめ景教(キリスト教ネストリウス派)、イスラームなど世界の宗教が集まっていて、それらを広く学んだ。陳舜臣は小説『曼陀羅の人』で、空海は密教をも超えた普遍的教えを求めていたと書いている。
四国遍路を体験した外国人が、その印象を語る言葉で一番多いのが「ライフ(人生、生き方)」、つまり倫理(エチカ)である。ひたすら歩くことで、人々は自然と一つになり、そこから生き方を見直していく。
永続的な救いは浄土教の還相回向(げんそうえこう)に似ており、資本主義の倫理を生んだカルビンの二重予定説に通じる。浄土で救われ仏になった身(往相回向(おうそうえこう))で現世に戻り人々を救うというのは、救いの予定を証すため勤勉に働くプロテスタントの心理と符合する。いずれも人間の感情レベルの話で、空海もスピノザも感情や欲望を重視した。空海の即身成仏を、庶民にも分かりやすい阿弥陀如来への信仰、念仏で到達しようとしたのが法然や親鸞なのであろう。
救いとは自分を生み出した自然と一つになること。私は20年超の農業を通し、それを実感するようになった。先日見た、東京農業大学「食と農」の博物館の「美しき土壌の世界」でもその思いを強くした。
久しぶりの上京で30年ぶりに再会した友人らと語り合いながら、宗教とは自分で考え、結実させることだと再認識した。そうすれば、宗教は自分を最後まで成長させ続けるツールとなる。私にとってその最高のモデルが弘法大師空海である。
(多田則明)