松尾芭蕉が仏頂和尚に出会う 『鹿島紀行』の舞台、根本寺

仏頂を手本に旅の人生を

参禅指導で転機を迎えた芭蕉

山の森を背にした根本寺。本堂脇に「月はやし梢は雨を持ちながら」の句碑がある

茨城県の鹿嶋市にある鹿島神宮に参拝した日、地図を広げて見ると、そこから臨済宗妙心寺派の根本寺まで2㌔ほどで、歩いて行けることが分かり、訪ねていった。

この寺は聖徳太子の開基と伝えられる古刹(こさつ)で、松尾芭蕉が『鹿島紀行』の目的地とした寺でもあった。芭蕉がここを訪ねたのは貞享(じょうきょう)4(1687)年8月で、禅の師匠、仏頂(ぶっちょう)和尚に会うためだった。

2人の出会いは、延宝8(1680)年にさかのぼる。芭蕉が日本橋から隅田川河畔の深川に居を移した年で、仏頂が近くの深川臨川庵(りんせんあん)に滞在していたことも、芭蕉がこの地を選んだ理由でもあったらしい。

ところで芭蕉の生涯にとって仏頂との出会いはきわめて大きな意味を持っていた。

中山義秀の小説『芭蕉庵桃青』は、芭蕉が深川に居を移したところから始まり、生活ぶりが描写された後、仏頂が来訪する場面となる。

芭蕉はこの頃、談林派風の俳諧から脱して、老荘や杜甫の詩に引かれ、それを暗示する句を発表し始めた。この仏頂による禅の指導こそ、芭蕉の俳諧に転機をもたらし、蕉風の根底を作り上げていくと考えられているからだ。

それを象徴する句が「かれ朶に烏のとまりたるや秋の暮」であり、「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」だった。

栗田勇さんの著書『芭蕉(上)』(祥伝社)によれば、「一対一の関係で、芭蕉に欠けていた仏書漢籍にわたって、ひろく問いに答える教育だったであろう」と記し、芭蕉は禅の目指す究極的超越性について、「直接的に了悟する宗教的感性」を持ち合わせていたという。それこそが芭蕉を世界的詩人たらしめたものだった。

深川での交流は天和2(1682)年まで続き、5年後、貞享4年8月、芭蕉は鹿島へ向かう旅に出る。小名木川(おなぎがわ)から行徳へ、陸路をたどって布佐(ふさ)へ、そして利根川を下って北浦へ回り、神宮参拝の後、仏頂に再会する。

「芭蕉が仏頂を徳としてゐるのは、彼の勇猛心とその実行力である」と中山義秀は記した。芭蕉にもそれがなければ、風雅のために最低の生活をして、飢え死に覚悟の生き方を貫くことはできない。芭蕉は仏頂を手本に、旅の人生を生きつづける。

根本寺は鹿島城址(じょうし)の西側の草深い里にあり、背後は山の森となっていた。境内に芭蕉の句碑が二つあった。

「寺にねてまこと顔なる月見かな」「月はやし梢は雨を持ちながら」

芭蕉が訪ねた日は昼から雨で、月見は期待できなかった。それでも芭蕉の心は「すこぶる人をして深省を発せしむ」もので、「しばらく清浄の心をうるににたり」と記した。夜半になると月が出て、和尚に起こされて、2人は月を眺める。

「月はやし梢は雨を持ちながら」と芭蕉が詠むと、仏頂は「おりおりにかはらぬ空の月かげもちぢのながめは雲のまにまに」と和尚は歌で返した。

月はやしというのは、雲が月面を流れて月が走っているように見えて、どちらが動いているのかという疑惑。月は変わらないが、雲の変化によって月も変化するように見えるという返答。雲は煩悩を暗示した禅語で、幸福そうな2人の会話だ。

(増子耕一)

spot_img
Google Translate »