名手による短編小説への誘い 阿部昭著「新編散文の基本」を読む

文章から語る志賀、芥川の魅力

阿部昭著『新編散文の基本』

日本の近代文学では、短編小説の名作が幾つも生まれた。しかし、最近は短編が話題になる事はほとんどなくなった。文体の魅力、文章の彫琢などがより問われる短編小説の衰退は、文学そのものの衰退を意味する。そんな中で、戦後を代表する短編小説の名手、阿部昭の『新編散文の基本』(中公文庫)は、改めて短編小説の魅力を語りその世界に誘ってくれる。

教科書にも載る名短編といえば、かつては志賀直哉と芥川龍之介だった。本書でも「短篇小説の青春志賀直哉」と「芥川龍之介の短篇」が読み応えがあり、優れた直哉論、龍之介論になっている。

「短篇小説の青春」では、さまざまな題材を扱った直哉の短編を作者の内面生活と照らし合わせながらたどり、「作者がいかに一作ごとに悪戦苦闘して次作への手がかり足がかりを摑むんで行ったかが窺がわれ、感動を新たにさせられる」と述べている。

志賀の「平明そのものの、過不足ない、完璧な文体」については、『鵠沼(くげぬま)行き』と芥川の『蜃気楼』の文章を比較している。どちらも著者が生まれ育った神奈川県の鵠沼を舞台にした作品だが、芥川の文章は巧みに絵を描こうと腐心しているのに対し、志賀の眼は「あくまでも個々の対象の所在と運動を見届けようとする意志に貫かれて」おり、形容詞は能(あた)うかぎり排除されていると指摘する。

「芥川龍之介の短篇」では、その整った端正な文章を読むと、「他の作家の文章はみな乱雑に書き流したようで、神経が行きわたっていないような感じ」さえするという。その一方で、骨身を削りながら「その息苦しいまでの隙のない筆法」で書き続けることが、芥川の命を縮めたのではないかともいう。

芥川は切れのいい短編を幾つも遺(のこ)したが、何よりその魅力は、一貫した語りの調子、トーンにあるという。そして、洋の東西に小説の題材をさぐり、文章に心血を注いだのも「まずは読者を楽しませようがためであったのですから、われわれもその素晴らしい話術と文章を大いにたのしむべき」と締めくくる。

このほか、「国木田独歩がいた町で」では、現代小説から自然描写が消えたのは、自然が象徴する「大いなるもの」の中に卑小な人間を置いてみるという見方を失ったのであると言う。意味深長で鋭い指摘と言えよう。

(特別編集委員・藤橋進)

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