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最古の武家の文庫を訪ねて 金沢文庫

北条実時が鎌倉中期に創設

3代にわたって蔵書の収集

神奈川県立金沢文庫

最古の『源氏物語』写本の一つ保管

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」で始まる『源氏物語』が千年の時を超えて今に伝わっているのは、それを書き写した人たちがいたから。

その写本の一つを保管してきたのが横浜市金沢区金沢町にある金沢文庫で、今では京浜急行の駅名になっている。

称名寺にある北条実時の胸像

金沢文庫は鎌倉時代中期(13世紀後半)に金沢流北条氏の北条実時(さねとき)(1224~76年)が金沢郷(現在の横浜市金沢区)の居館に設けた文庫で、武家の文庫としては日本最古、現在は「神奈川県立金沢文庫」として県立歴史博物館になっている。

実時は蒙古襲来の文永の役の翌建治元(1275)年に政務を引退して六浦(むつうら)荘金沢に住み、翌建治2(1276)年に53歳で死去した。文化人としても知られ、法制や漢籍をはじめ和歌など王朝文化を学び、『源氏物語』の注釈書も編纂(へんさん)している。

称名寺山門

また、鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を収集し、蔵書の収集はその後も顕時(あきとき)・貞顕(さだあき)・貞将(さだゆき)の3代にわたって受け継がれ、充実された。

金沢文庫の主な収蔵資料には、北条氏により鎌倉の極楽寺に迎えられた真言律宗の忍性(にんしょう)や称名寺(しょうみょうじ)住持審海の像、釈迦(しゃか)十大弟子像、金銅製愛染明王(あいぜんみょうおう)像などの仏像、中国から渡来した工芸品や審海が使用した法具、古文書などがある。所蔵品11万点のうち2万点が国宝で、中国でも失われた書物が現存するなど、世界でここにしかない文献も多く、近年、注目されるようになった。鎌倉幕府滅亡後もそれらを守り続けてきたのが、文庫とトンネルでつながっている真言律宗別格本山の称名寺である。

池に架かる反橋

鎌倉時代、当所は鎌倉の東端に当たり、北条氏の一族で朝廷との交渉など担当する金沢北条氏の領地だった。金沢氏は学問の家柄で、実時は隠居した後に別居した金沢郷に和漢書を収集し、金沢文庫の基礎を作り、六波羅(ろくはら)探題(たんだい)として京都に赴任した貞顕も本格的に文献を収集、筆写した。文化的に京都や奈良に劣る鎌倉ならではの事業と言えよう。当時の寺は中国の最先端の文化を学び、導入する今の大学のような施設であった。鎌倉を代表する禅寺の建長寺も、開山(初代住職)は南宋から渡来した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)である。

金沢文庫の所蔵から足利氏を経て徳川家康に献上され、尾張徳川家の蓬左文庫(ほうさぶんこ)に収められたのが重要文化財の河内本源氏物語で、鎌倉時代の54巻23冊がそろう『源氏物語』現存最古の完本の一つである。

鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、称名寺も衰退したが、江戸時代に復興された。北条氏は鎌倉の建長寺に代表される臨済宗がメインだと思われがちだが、神奈川県には意外と真言宗の寺が多い。

釈迦が始めた仏教は煩悩を滅する否定の宗教だったが、それから約500年後に興った大乗仏教の最終ランナーである密教は、欲望を認める肯定の宗教で、ヒンズーの神々も取り入れた。宗教学者の島田裕巳氏は、仏教がヒンズー教を取り込んだのではなく、インド土着のヒンズー教が仏教を呑(の)み込んだと説明している(『教養としての世界宗教史』宝島社新書)。これによりインドでは仏教が消えてしまう。古来より現世的、現実的な日本人は密教を歓迎した。

称名寺は実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)が起源で、後に下野(しもつけ)薬師寺の僧・審海を開山に迎え真言律宗の寺となり、一族の菩提寺として発展した。

朱塗りの赤門をくぐると桜並木の参道が続き、仁王門をくぐると、池に島、反橋(そりはし)、平橋が配された「浄土庭園」が広がる。そして、浄土庭園の向こうには、緑豊かな金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を背に、金堂・釈迦堂・鐘楼が屋根を並べている。

(文と写真・多田則明)

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