英訳『こゝろ』が新装版に 英文学者近藤いね子と夏目漱石

美しく、心にしみこむ英語

人との関わりを追求した漱石

2018年に国書刊行会が発行した「英訳『こゝろ』」

津田塾大学英文科主任だった近藤いね子(1911~2008年)は、1941年、夏目漱石の「英訳『こゝろ』」(北星堂出版)を刊行し、翌年岡倉賞を受賞した。これは48年に研究社から再版されたが、間もなく絶版に。そして再び、国書刊行会から新装版としてよみがえった。

かつてこれを読んだ英語学者の渡部昇一氏は「美しく、心にしみこむ英訳」と絶賛していた。「この人の英訳の『こゝろ』を読んで、私はすっかりのめり込んだ。英語がいいのである」と語り、「日本語の原文で読んだ時よりさらに深く解った」と感想を述べていた。

近藤いね子は津田英学塾と東北帝国大学を卒業後、37年英国ケンブリッジ大学に留学し、修士号を取得。当時、帝国大学では女子の入学が許可されなかったが、東北大学は唯一の例外だったという。

39年、帰国後は津田英学塾(のち津田塾大学)で教鞭(きょうべん)を執った。52年に「ジェイン・オースティン論」で文学博士号を取得。日本での女性文学博士第1号だった。

64年秋から9カ月間、米国のノースカロライナ州立大学の女子カレッジとシカゴ近郊のロックフォードカレッジで、日本文学を教えていたこともある。

近藤は夏目漱石の熱心な研究者であり、「夏目漱石と『こゝろ』について」(星野美賀子訳)という解説も載せている。それによると作品は多岐にわたっているように見えるのだが、「常に、ただ一つの核心が、すべての作品において中心になって」いて、「その核心とは、漱石がひとりの人間として、周囲の人々といかに関わったということです」。

教え子だった星野さんの表現によれば、近藤はその作品群の発展過程を「西洋的パラダイムのように」理解していたという。

そうした理解によれば、漱石は若い頃、醜い現実とは対立する詩や美や夢を追っていった。だが、現実から逃避する状況をつくるのが難しくなると、それと向き合い、自分に襲ってくるさまざまな疑問に思いを巡らさざるをえなくなる。

『三四郎』『それから』『門』の3部作では、ロマンチックな愛を扱い、見知らぬ関係にあった2人を磁石のように引きつけたり、いっしょにさせない人生の謎を追求し、その愛の結末も描いてみる。

だが書けば書くほど彼自身の性格自体が出てきて、『行人』では、醜いもの、誤ったものに対する不寛容さに由来する、良心的な態度をとり、自己主張を貫く人物がつくられた。だが、反対に『こゝろ』では、過去の痛ましい経験のゆえに、自分を何度も徹底的に否定する人物をつくるようになったという。

『こゝろ』を全作品の中に置いてみると、独特の意義を持った作品だと言えると、近藤は位置付けている。

また「心」という言葉は翻訳するのに実に難しい言葉だったという。この一語の中にmind(知性)、heart(心臓)、soul(魂)、spirit(精神)という意味がすべて含まれているようだ、と言うのだ。フランス語版では「人間的な心」と翻訳されたが、近藤は日本語KOKOROをそのままに残した。

(増子耕一)

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