紫式部の精神世界を考える
背景に神道、陰陽道、密教に浄土信仰

都人が楽しみにした葵祭
寺院やミュージアムで貴族世界を体感
NHK大河ドラマ「光る君へ」は初回から安倍晴明が登場し、当時の陰陽道(おんみょうどう)の力を感じた。事故や災害を怨霊のせいだと信じる人が多かった時代、それを因果関係で説明し、解決法まで示す陰陽道は最新の科学だったのだろう。そこで、紫式部がどんな精神世界で生きていたか、京都の名所を巡りながら考えた。
最初は、紫式部がよくお参りしていた上賀茂神社。下鴨神社と上賀茂神社で5月15日に行われる葵祭(賀茂祭)は『源氏物語』の「葵の巻」にも書かれている。有名な「車争い」で、祭りの見物に訪れた光源氏の正室・葵(あおい)の上と恋人の六条御息所(ろくじょうみやすどころ)の牛車(ぎっしゃ)が鉢合わせし、場所争いで六条御息所の牛車が無理やり立ち退かされた話で、後に嫉妬に狂った六条御息所の生霊(いきりょう)が妊娠中の葵の上を悩ませる原因となる。

当時、京の祭りというと賀茂祭のことで、都人は年に1度の賀茂祭を楽しみにしていた。紫式部が特に願をかけたのは境内にある縁結びの神の片岡社。祭神は下鴨神社に祀(まつ)られている玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)の母神である。
紫式部は父と越前に行く前、「ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくにたちやぬまれし」と詠んでいる。(大切な方に例えた)ホトトギスの声を待ちわびる間は、この片岡の社の下に立ち、森から落ちる朝露のしずくに濡れて待っていましょう…、ここにいると(神の恵みを受けて)すてきな人との出会いがあるかもしれない…との意味。しずくは神の恵みのことで、理想的な伴侶との出会いを願ったのだろう。

滋賀県大津市にある東寺真言宗の石山寺は、京から「石山詣」に訪れた紫式部が『源氏物語』の構想を思いつき、書き始めた場所とされ、本堂脇には、紫式部が執筆に使ったという四条二間の部屋がある。
石山寺にこもっていると、8月15日の月が琵琶湖に映え、その景色を眺めているうちに脳裏に浮かんできた物語が、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…」と、都から流された貴人が月を見て都を想う場面。このくだりは、須磨に流された光源氏が、十五夜の月に、都での管弦の遊びを回想するシーンとして使われた。

平安時代の貴族の世界を体験できるのが、物語の最後「宇治十帖(うじじゅうじょう)」の舞台となった宇治市の源氏物語ミュージアム。宇治は貴族の別荘地で、藤原道長の別荘「宇治殿」を、子の関白頼通(よりみち)が寺に改めたのが平等院(びょうどういん)。平等院鳳凰堂(ほうおうどう)で連想するのは道長の傲慢(ごうまん)とされる歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」だが、道長自身は仏教に深く帰依し、阿弥陀如来による浄土往生(おうじょう)を願っていた。
聖徳太子に始まる仏教による国づくりが概成した奈良時代の仏教は今の学問で、寺は大学。それが平安時代になると人々の救済に重点が移り、最澄や空海による密教が主流になる。平安後期に、災害や争乱で社会不安が高まると、せめて死後の極楽浄土の往生が求められるようになり、念仏僧が語る浄土信仰が貴族から庶民にも広まった。
「宇治十帖」でヒロイン浮舟を入水(じゅすい)した宇治川から救い、出家に導く僧は、『往生要集』を書いた比叡山の源信がモデルという。死後の極楽と地獄がリアルに描かれた同書は評判を呼び、それを指南書に最期を迎える人が増え、平等院鳳凰堂もその表れ。比叡山の山頂の一番奥にある横川(よかわ)地区には、源信の足跡が残され、『源氏物語』とのゆかりを記す石碑が立っている。
(多田則明、写真も)