少年時代から描いていた似顔絵
市に寄贈された資料の数々
イラストレーター、グラフィックデザイナーの和田誠(1936~2019年)は、映画監督、エッセイスト、作詞・作曲家としての顔も持っていた。和田誠事務所にはそれら仕事に関する膨大な数の資料が残されていたが、2022年度、1000点を超える資料が千葉県市川市に寄贈された。市川市ゆかりの作家、井上ひさしとの仕事の縁からだったという。
市川市文学ミュージアムでその中から和田の絵本や、エッセー、似顔絵に関する著作の他、谷川俊太郎、村上春樹、井上ひさしらの図書の装丁、ポスターなどを紹介する「和田誠展楽しみのために描く」が開催中。和田の母校である多摩美術大学の協力で、原画、直筆原稿、文具など愛用品も展示している。
和田誠は1936年、大阪市の生まれ。日本放送協会大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)に勤める父と、母、兄の4人家族で、幼少期から絵を描くことが大好きだったという。
幼少期の資料にも面白いものがある。小学生時代の絵日記で、8月24日の文章。「アサニイチヤンガガクカウヘトマリニイキマシタ。ボクハベンキヤウシテカラソトデアソビマシタ(略)」。絵が添えてある。兄が学帽をかぶり、半ズボンで、風呂敷包みを持っている。かわいらしくていい。「外で遊べ!」は父親の小言だった。
「和田と俳句」のコーナーでは「俳句に関しては門前の小僧だった」という、小学校以前の体験を紹介している。親族有志が集まって「我等が親戚俳句会」という催しをしていたという。
和田はまだ文字が書けなかったそうだが「フミキリノマエニナランダネギボウズ」と詠んだ。ひらがなと漢字で表すと「踏切の前に並んだ葱坊主」。みんなから喝采される様子が目に浮かぶ。
中学・高校時代には、夢中になって同級生や先生の似顔絵をノートにびっしりと描き、高校2年生の時には、授業の時間割を先生の似顔絵で作成してクラスメートに配った。みんなを楽しませる喜びは、大人になっても、仕事の中で繰り広げられていく。
似顔絵に関しての初仕事は1966年で、「吉行淳之介軽薄対談」(講談社)の連載で63人を描き、68年「週刊サンケイ」の表紙で描き始め、73年まで4年間で200人以上に上った。この仕事で第15回文藝春秋漫画賞を受賞する。
和田が社会的に知られるようになるのは、多摩美術大学を卒業した後、デザイン会社ライトパブリシティに就職して、「ハイライト」のデザインが指定コンペで採用されたこと。和田の作成による銀座の地図が表紙に使われた『銀座界隈ドキドキの日々』(文藝春秋)の著書もある。ここにはライトパブリシティ時代の出来事が詳しく書かれていて、ジャズも、絵本も、映画ポスターも、一緒に仕事をした人々も登場し、この展覧会のガイドのような役を果たしてくれる。
和田は大学生時代にグラフィック・デザイナーの団体「日本宣伝美術会」の展覧会で一等賞を受賞していた。ライトパブリシティの社員らは、この新人に興味津々だったようだ。
「和田誠と映画」「和田誠と音楽」「谷川俊太郎との仕事」など、多角的な面からの展示と解説があり、興味は尽きない。3月17日まで。
(増子耕一、写真も)