東京・京都・九州国立博物館で「法然と極楽浄土」展
日本の宗教改革者法然
国宝や重要文化財によって紹介
浄土教成立は紀元100年頃のインド
法然による浄土宗開宗850年の節目の年にあたる今年、特別展「法然と極楽浄土」が、4月16日から6月9日まで東京、10月8日から12月1日まで京都、来年の10月7日から11月30日まで九州の各国立博物館で開かれる。阿弥陀如来と二十五菩薩(にじゅうごぼさつ)が往生(おうじょう)者を迎えようと、山頂ごしに飛雲に乗って降下するさまを描いた鎌倉時代の国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図(らいごうず)(早来迎)」は修理後初公開となる。
極楽浄土に住まう阿弥陀如来(阿弥陀仏)を中心的に信仰する浄土教(浄土信仰、阿弥陀信仰)が成立したのは、インドで大乗仏教が興った紀元100年頃で、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』と『阿弥陀経』が編纂(へんさん)されたのを機に広まった。中国に伝わったのは2世紀後半からで、7世紀の唐代に道綽(どうしゃく)や善導(ぜんどう)らの働きで、浄土教は宗派として成立していく。
日本に浄土教が伝えられたのは飛鳥時代の7世紀前半で、阿弥陀仏の像が造られた。平安時代になると最澄が開いた比叡山で、天台宗の常行三昧(じょうぎょうざんまい)に基づく念仏が始まり、貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、臨終(りんじゅう)に来迎を待つ風潮が広まった。また、念仏を唱えながら各地を遊行(ゆぎょう)した空也(くうや)や良忍(りょうにん)などにより、浄土信仰は一般民衆へも浸透した。
天台僧の源信は平安中期に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に大きな影響を与えた。同書は瞑想(めいそう)により仏を見る「観想念仏」を重視しているが、民衆に「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」を認知させたことが、後の浄土教の発展につながったとされる。
6世紀の仏教公伝以来、国造りの思想として、国家の庇護(ひご)のもとに発展してきた日本の仏教は、内乱や災害、疫病によって世が乱れ、人々が不安に陥れられた平安末期から鎌倉時代にかけて、民衆を救済する大衆仏教への転換期を迎えた。
宇治市にある世界遺産で国宝の平等院鳳凰堂は、平安時代の摂政・藤原頼通(よりみち)が父道長の往生を願い、極楽浄土を現世に再現しようとした壮麗な建築である。紫式部『源氏物語』の最後、「宇治十帖」で2人の貴公子のはざまで悩み、宇治川に身を投げた浮舟を救った比叡山の僧のモデルが源信とされる。ここから、紫式部も浄土信仰に引かれていたことが分かる。
しかし、浮舟の願いを入れて出家させた僧が、事情を知って還俗(げんぞく)を勧めるなど、仏教によって救われるかどうかは書かれていない。それは小説の手法でもあろうが、紫式部自身が揺れていたからであろう。むしろ、揺れながら自分の生きる道を探していたのが信仰のあり方かもしれない。
殺された父の「敵を討つのではなく、菩提(ぼだい)を弔ってほしい」との願いを胸に出家し、比叡山で学ぶなか、善導の教えに引かれるようになった法然は、「南無阿弥陀仏」と口で称えることで誰もが極楽浄土へ往生できると説き、浄土宗を開いた。難しい「観想念仏」ではなく、容易な「口称(称名)念仏」を勧める教えは貴族から武士、庶民にまで広く受け入れられ、今の時代にも受け継がれている。仏教宗派最大の信徒をもつ親鸞の浄土真宗も、当時の社会現象となった一遍の踊念仏の時宗も、法然がいなければ現れなかっただろう。法然が日本の宗教改革者と称されるゆえんである。
本展は、法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立、江戸時代に徳川将軍家の帰依により大きく発展した歴史を、国宝や重要文化財を含む名宝によって紹介する。
重要文化財「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」など法然にちなむ貴重な資料をはじめ、国宝「綴織(つづれおり)當麻(たいま)曼陀羅(まんだら)」など浄土教美術の名品が展示される。
(多田則明)