天からの甘露を手に受けて
造化の原理を探求する思索の書
「”戦後詩〝の主人公は焼跡であろう。焼跡は廃墟でありつつ大草原でもあった。荒地願望と荒地憎悪の二つの極の間をじつにおびただしい数の詩人たちが往復した」
作家の開高健が「サボテンの花」という随筆で書いている。そして戦後詩なる作品の優秀なものは廃墟(はいきょ)に咲いたサボテンの花だったという。
この比喩がどこから来たのか記されていないが、戦後詩人として名を挙げた1人、金子光晴が序文を書いた詩集があった。それが昨年亡くなった栗田勇の『仙人掌』(ユリイカ)で、この中に「サボテン」という詩が登場する。
「まひるの街のうえで、入道雲がふいにわらいだした」と始まり、その声が破れて広がり、崩壊した地球を浸潤していく。やがて夕暮れになり、この新しい砂漠にサボテンが紫の花を咲かせる。
この詩を書いていた頃、栗田さんは東京大学文学部仏文科の学生で、フランスの象徴主義詩人たちの詩集を手に街をさまよっていたという。そしてダンテやボードレールのように、神話的次元で、猥雑(わいざつ)な現実を昇華して永遠の一瞬をくぎ付けにできないだろうかと模索していた。
仙人掌は「サボテン」とも読むが、「せんにんしょう」とも読む。後者は漢代の銅盤の名で、天から降る甘露を受け止めるために、仙人がそれを手でささげている姿なのだそうだ。そのような意味を込めた詩集だった。
しかし絶対的な体験は言語の成立しない地点であることを悟り、それに向かうためにはその失墜や敗退の嘆きをうたうしかないと考えたのだった。このような考えに至ったのはボードレールやランボーの詩からだった。
詩集を出した後は、詩論に取りかかった。素材として見いだしたのが日本仏教史の中の人物で、一遍、道元、良寛、一休、最澄。最後にたどり着いたのが『芭蕉(上下)』(祥伝社)だった。
これらの人物に取り組み、詩論に挑んで体験したのは、予想に反して、失墜や退廃の嘆きをうたうことではなく、言語化できないその根源世界からの甘露を手に受けることであった。
質、量とも空前絶後の大作『芭蕉』が、どのような作品なのかを語るのは困難だ。伝記や評論を含んでいるがそれだけではない。芭蕉の詩語を核にして、造化の原理を探求しようとする、思索の書ともいえよう。作者の内面的、精神的遍歴もからんで、西洋思想と東洋思想との対立が消え、現代哲学と古典文学との対立も消え、探り当てた水脈は奥底で通じていた。
かつてこの文学者といっしょに中国を旅したことがあった。最澄をテーマにした小説『比叡は萌える』を小紙に連載していただいたからであり、取材同行の旅であった。
栗田さんが心躍らせたものの一つに、至る所で目にした手書きの墨書があった。書が文化の骨格を成していることに感動したのだ。山肌の岩壁に大小無数の字が刻された泰山を訪れた時のこと。
その山で、彼は、字を刻することは天との霊的な交流を意味していることに思い当たる。書の原型である亀甲文字は運勢に深くかかわり、書の根底に独特の神秘哲学が秘められていたことを悟る。漢字は記号や符号ではなく、そのルーツは、「易」に説かれた天地造化の理法を象徴した原理だったことを思う。
老子が「玄」と呼んだ真理の深奥。文字と書はそこに参入する直接的な道でもあった。このように旅先でも、先人の残した詩文にも、彼は「玄」を感じ取っていた。それを詩論で展開したのだ。最後の『芭蕉』は、読者に深い安らぎを与えてくれる作品となった。
(増子耕一)