近代真宗の宣布者・暁烏 敏

清沢満之と共に近代真宗を普及

広く読まれた『歎異抄講話』

母を称える暁烏敏の歌碑

高浜虚子に師事 俳人でも高い評価

北陸が今も「真宗王国」と呼ばれるのは1471年、比叡山延暦寺の迫害により京を逃れた蓮如(れんにょ)が、越前吉崎(現在の福井県あわら市)に拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう)を構えたことに始まる。当地で蓮如は「御文(おふみ)」と呼ばれる仮名書きの法語や「南無阿弥陀仏」の六字名号により、教義を分かりやすく人々に伝え、信者を増やしていった。

その勢いは、加賀一向一揆により1488年から織田信長によって鎮圧されるまでの90年間、本願寺の門徒が武士から統治権を奪い、「加賀は百姓の持ちたる国」と呼ばれる自治を実現したほど。北陸の人々は蓮如を今も「蓮如さん」と親しく呼んでいる。

雪の明達寺

石川県白山市にある真宗大谷派の明達寺(みょうたつじ)に明治10年、生まれたのが暁烏敏(あけがらすはや)である。敏は清沢満之(きよざわまんし)と共に「絶対他力の大道」を唱えて、近代西洋思想によって見直された近代真宗の普及に努め、『歎異抄(たんにしょう)』を世に広めたことで知られる。白山市のホームページには、敏の歌「十億の人に十億の母あらむもわが母にまさる母ありなむや」が掲げられ、「近代的な哲学思想を広め、日本の思想界に大きな足跡をのこした人物」とし、市は「暁烏敏賞」を設けている。

敏は高浜虚子に師事して詩人、俳人としても高く評価された。そうした文学的センスが説教にも生かされ、「念仏総長」と愛称されるほどの人気説教師になった。半面、戦時中は戦場に赴く門徒らを激励するいわゆる戦時教学を唱え国策に協力する。戦後、反省して身を引くが、その非凡な能力を買われて昭和26年に真宗大谷派宗務総長に就任すると、わずか1年で危機的な宗派財政を回復させ、潔く辞任するという無欲の人でもあった。

真宗大学で清沢の宗門革新運動に参加した敏は20歳で独自に『歎異抄』と出会い、佐々木月樵(ささきげっしょう)、多田鼎(ただかなえ)とともに学寮・浩々洞(こうこうどう)を開き共同生活を始めた。明治34年に浩々洞で、仏教用語を使わない仏教雑誌『精神界』の刊行を発案し、編集に携わるようになる。清沢の思想が「精神主義」と呼ばれるようになるのは、この雑誌名による。

明治36年から『精神界』に「『歎異抄』を読む」を8年間55回連載し、蓮如以来、真宗では禁書とされていた『歎異抄』を世に広めた。有名なキャッチコピー「ただ一冊の書物を携えて離れ児島に行けという人があるならば、…『歎異抄』を一部持ちさえすれば結構である」も敏の言葉である。同年、清沢が死去すると敏は浩々洞代表を継ぐ。

私の心、生き方の問題として信仰を語る敏の話は、地獄の恐ろしさを聞かせて阿弥陀如来の救いを説き、檀家の信心を維持するのに限界を感じていた全国の若い真宗僧の共感を呼び、敏の『歎異抄講話』は広く読まれるようになった。学究的な清沢だけでは不可能だった近代真宗の大衆浸透が、女性問題を抱え「悪人正機」説を地でいくような敏によって可能になったのである。

昭和2年、インド・ヨーロッパを旅行した敏は、次第に日本精神を提唱するようになる。「私は人類愛に燃えているから、戦争もするのである、殺生がしたくないから、涙を呑(の)んで戦さをするのである…。日本の精神は天照皇大神の和魂であるが、荒魂となつて戦争に従事せられることもある」などと。

そして、「天地の果てにひびけと高声に念仏称へて戦勝を祈る」などの歌を作り、若者を戦場に送り出した。当時は浄土真宗だけでなく、ほとんどの宗教・宗派が戦争協力に応じていたので、敏だけが特異なのではない。

昭和27年、敏は明達寺に清沢満之の像と、脇侍として合掌する自身の像を安置した臘扇堂(ろうせんどう)を建立し、同年、満77歳で没した。「臘扇」は満之の晩年の号で、現世では用のない冬の扇という意味。八角形の堂は聖徳太子ゆかりの法隆寺の夢殿を模している。

(多田則明)

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