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我妻榮記念館を訪ねて/山形県米沢市

民法学一筋に生き、確立

社会学的手法を取り入れ体系化

我妻榮(わがつまさかえ)は日本の民法学を確立した法学者で、伝統的法律学に社会学的手法を取り入れ体系化させたそれは「我妻民法」と呼ばれ、代表作「民法講義」は今日の民法学の基礎となっている。山形県米沢市にある我妻榮記念館(写真)を訪ねた。

館内に入り、榮を紹介する20分ほどのビデオを見、それから館員が1階2階、土蔵(資料室)を案内してくれる。榮は明治30年生まれで、小学校時代の成績は品行以外はすべて甲(優)。授業中、勉強が分からないクラスメートに教えたいがため、机でじっとしていることができず、教室をあちらこちらと歩き回った。そのこと故に品行だけは乙(良)とされた。

榮の勉学にかける熱意はすさまじいものがあったようだ。記念館の人の話では「朝5時から夜8時まで、食事、トイレ、散歩、昼寝以外は机を離れることはなかった」という。5時の開始に間に合うよう、冬は4時に起きて自ら炭をおこしたそうだ。

米沢中学卒業後、第一高等学校、東京帝国大学法学部へと進んだ。一高での成績は常に首席。一高と東大を通じて故岸信介元首相と成績トップの座を争ったことは伝説となっている。岸氏は榮の米沢の家を訪れ、滞在して釣りや温泉を楽しむなど親友の間柄でもあった。

昭和35年の日米安保改定時には「岸信介君に与える」と題する新聞寄稿の中で「直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ること」を勧めるなど、政治的には反対の立場から親友として率直な苦言を呈した。

29歳で東京帝国大学法学部の教授となり、定年退職後も民法学の研究を一生の仕事とした。昭和36年、最高裁判所長官の候補に上ったが、民法の研究を続けていくことが自分の生きる道として固辞した。榮の強い信念を表す「守一無二無三」(一を守り、二無く、三無し)と書かれた色紙が母校の興譲小学校に残されている。

榮は裁判の記録をまとめた判例集も残した。一つの判例を1枚のカードに簡潔に書き記した7000枚にも及ぶカードが記念館に所蔵されている。記念館には他に榮の著作物、直筆の原稿、写真、手紙など多くの品々が所狭しと並ぶ。「巻物」と呼ばれる紀元前2000年から昭和33年までの法律と社会制度をまとめた年表は、榮の情熱と緻密さが、うかがわれる資料だ。今年は榮没後50年に当たる。

(長野康彦、写真も)

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